「今日の食事が死に方を決める 明日の食事が生き方を決める。」( 11 ) 私たちは料理をいつ学ぶのだろうか? 商品化された食事が「生活習慣病」を招いている。

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妻が、東洋経済オンラインの記事をメールで教えてくれた。

なかなかいい記事ではあるが、もう少し頑張って考えてもらいたい(笑)。



僕は、「幸運な病のレシピ」の中で、「食事の価値」をなんとか見つけたいと思っている。

なぜ、「料理を家庭で作らなければならないのか」である。

そして、なぜ、生活習慣病がこれほど私たちに恐怖を与えているのかを分かり、向き合う必要があるのだ。

糖尿病の専門医などの発言を見ると自分たちが指導する食事を取ればいい、「糖質の少ない商品」が出ているのだからそれを食えと自分をセールスするのに余念無い。あたかも、中世の教会で疫病からの護符を売る聖職者のようである。彼らの言うことを嘘だと断ずる方法はない。長く僕は、権威の言葉を信じてきたが、自分の命は自分で守らなければならない。こういう連中はBMIという見てわかるわかりやすい検査値ばかりあげつらう。

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毎日動画で作っているところを撮影している間に様々な気づきがあった。

「家族というシェルター」の理論である。


「料理の作り方」というのは、どこに記憶されているのだろうか?
家庭科の教科書の中だろうか、料理教室の中だろうか?
2017年終わりから2018年にかけて、このことに気がついたのが一番大きかった。


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1980年くらいに大きな分岐があったように見える。
大店法、栄養士の免許の数、探せばもっと色々な数字が見つかるだろう。

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しかし、この記事(東洋経済オンラインの記事)は突っ込みどころ満載である。
フェミニズムが最近の話のように考えているし(1960年代のシャッドウワーク論を知らないわけがないだろう)「料理を作る必要がなくなった」と断じているところも僕には抵抗がある。

家庭には二面性があったのだ。
絶対的な忠誠を誓うことで、徹底的な保護を与えた。
これは、はっきりしている。

多くの宗教では不倫に対して「死」を与えた。
セックスは、感染症をセーフティな環境に持ち込むのである。
だから「よそ者」とのセックスは許されなかった(セーフティな環境を維持している隣人とは黙殺されていた)。


私たちは、過酷な環境の中で生き延びるために「家族」という宗教を守り続けたのである。

多くの宗教は食事に対しての細かいルールを持っている。
そしてその宗教のルールを実際に運用するのは「家庭」であり、その具体的な戒律の尊守を通じてコミュニティは生き延びてきたのである。

私たちは大喜びで「家庭」というくびきから自由になり、その自由には対価(副作用)があった。
多くの機能を家庭から外注化(金銭で評価してサービスとして市場から受け取ること)したのである。








商品化された食事がいかに問題があるのかということを認識していない(認識していないからこういう記事になる)。

「商品化」つまり、プロが利益を上げることを目的として作る食事である。

売れ残りは許されないから、誰もが喜ぶ「炭水化物」が中心に来る。
コストを抑えるために「乾燥・精製」工程を通る。
乾燥に耐えられない素材(たんぱく質と脂質)は変質する。
炭水化物は種として時を超えてエネルギーを運ぶ。
葉が光合成で作りだして根にエネルギーを運ぶために「デンプン」は最適化されている。

しかし、動物には決定的な問題をもたらすのだ。
満腹が早く来るために、「私というコロニー」に必要な生命を食事から追い出すのだ。



栄養学や医学は、そうして出来上がった食事に、問題がないように「太鼓判」をおす。
では、なぜこんなにも私たちは生活習慣病の恐怖から逃れられないのだろうか?

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まあ、彼らの商売だから仕方がない。

自分の命を「商人」に任せてはならない。
所詮、他人である。僕が死んでも収入が減るのは悲しむだろう。
しかし、患者に対しては、「知識のない馬鹿が自業自得でなった病気だ」と蔑み哀れむだけだ。
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家族はそうではない。
その患者がいかに頑張って現実と戦ってきたかわかっているからである。
ともに守りあうコロニーなのだから、自分の一部なのだ。


僕は気がついて幸運だった。
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医師や栄養士も気が付けばいいのだが、成績の良い役人にそれを求めるのは酷であろう。
皆さんもれなく、『ゴーン ウイズ シット』である。








私たちは生まれながらに料理を作れるわけではない。

料理というのは、環境に対する生命の適応の一つの表れなのだ。

笑われてもいい、下手くそでもいい。

料理なんて、毎日続けていけばやがてうまくなる。

大事なことは、「食の価値」を信じることだ。

誰かと共に生きなければならない。
生活習慣病で苦しい最後の10年は、「権威の言葉や太鼓判」では防げない。
自分で生活に向き合うことだ。



僕は2型糖尿病というあまり名誉でない病気だ。
そんなに料理も上手ではない。
作った料理を家族は残すことも多い(笑)。
けど諦めない。

医師や栄養士には気づいてもらいたい。
あなた方の信じる「栄養学」が今の現実を招いている。
今、検査値が正常だと言っても、あなた方も同じように、災厄を迎える。






「女性の料理が笑われる」TBS番組への違和感
2019年1月6日 05:00東洋経済オンライン
平成もあと4カ月弱で終わろうというのに、テレビの世界は昭和のままで止まっているのだろうか。そんなことを思わせる番組がある。日曜昼に放送される情報番組「噂の!東京マガジン」(TBS系)で、素人の若い女性にレシピなしで料理に挑戦させる「平成の常識・やって!TRY」というコーナーだ。違和感を抱いているのは筆者だけではないようで、ネットで検索すると「やって!TRY女性差別か」といったブログなどが散見される。

「平成の常識・やって!TRY」は、1989年に番組が始まって1年以内に加わった人気コーナーだ。内容は、町中にキッチンをセットし、数人の若い女性に定番料理を作らせるというもの。ロケのVTR終了後は、スタジオでプロの料理人による解説付きの実演がある。ロケの現場でセットされた調理台には、さまざまな食材、調理道具が並んでおり、その中には、目的の料理には必要がない食材や調理道具も含まれている。

失敗する女性には面白おかしいツッコミが
レシピはないので、ふだん料理をしていない女性や、その料理を作ったことがない女性は、思いがけない方法で調理して失敗する場合がある。たとえば、シュウマイを作るのに蒸籠(せいろ)を直接コンロに載せ、シュウマイを燃やしてしまう女性がいる。親子丼を作ろうと丸鶏に手を伸ばし「これ、豚肉?」と戸惑う女性もいた。

カツレツの回では、低温で揚げてベチャベチャにした女性が友人に「油の温度が低かった」と指摘される。友人の女性や彼氏、母親などの同伴者が、料理法を知っていて完成後に知識を披露することもあれば、完成品を食べて、「味がない」「べちょべちょ」「しょうゆの味しかしない」と失敗のヒドさを指摘することもある。同伴者が料理法を知ってそうな雰囲気が気になる。もしかして、あえてその料理ができない女性を選んで撮影しているのか?
調理中は、随所に男性ナレーションによるツッコミが入る。カツレツを作るはずが生ハムを揚げてしまう女性には、「それ生ハムだもん」と一言。フライパンで牛肉を焼き始めてから、揚げるべきことに気づき衣をつける女性には、「なんだ恥の上塗りかい」。さらに、フライパンに卵を敷いて肉を包み、「『レツ』はオムレツみたいな(意味)」と説明するこの女性に、「ウソみたいな展開」とツッコむ。

2018年12月2日放送回のテーマは、サバの味噌煮だった。カツオだしの中に、筒切りにしてワタを取ったサバを立てて入れていく女性。頭と尻尾も立てて入れ、「あらあら何の儀式よ」とツッコまれる。

この回では、歴代の彼氏に作ってきたという27歳会社員で彼氏なしの女性が、別れた彼氏を思い出して泣きそうになりつつ、手際よく料理して作り上げる例もあった。サバの湯通しまでした完成品を友人たちも絶賛。しかしVTR終了後、スタジオでは元NHKニュースキャスターの森本毅郎氏が「歴代の彼氏のおかげだよ!」とツッコむのである。

作り方を知らないがゆえの失敗には、笑いを取れる部分があるのはわかる。放送されるのは、実際に作った人たちの一部だろうから、失敗の仕方がより「面白い人」を選んで放送していると思われる。失敗をネタにするお笑い文化が社会的に共有されているからこそ、「やって!TRY」は30年近く続いてきたのだろう。

声を上げ始めた女性たち

ところが、ここへきて「料理下手な女の子」を笑うコーナーに違和感を覚える声が増えたのには、3つの要因が考えられる。

1つはここ数年盛り上がるフェミニズム・ムーブメントの影響だ。2017年から世界的に広がった#MeToo運動や日本のセクハラ問題。医学部の入試における女性差別問題をめぐる盛んな報道。メディアやSNSで盛り上がる家事の省力化に関する議論。女性だけが家事・育児をする描写のテレビCMの炎上――。女性たちは今、差別と感じることに対して敏感になり、その問題意識は社会的にも共有されるようになっているのだ。

世界でも日本でも女性たちの声が大きくなったのは、インターネットを通じて個人が発信しやすくなり、連帯がたやすくなったからだろう。また、グローバリゼーションや移民の流入などによって、今までの常識が通用しなくなってきたことも大きい。

旧来の価値観が揺るがされ新しい時代のあり方を模索する中で、男性中心の社会システムが、「このままでいいのか」と問われ始めたのだ。日本の場合は、子育て世代の女性も働く時代になり、専業主婦が家庭にいることを前提とした既存のシステムが成立しがたくなっていることも、声が大きくなる原因の1つだろう。

女性が差別に敏感になって、ふと「やって!TRY」は、女性を笑いものにする企画ではないかと思い至る。こうした中で、気になるのが番組制作側は、どういう意図を持って、今もこの番組を放送しているかである。

早速、TBSに取材を申し込んだところ、番組プロデューサーの王堂健一氏よりメールで回答があった。それによると、コーナーを始めた当初のコンセプトは「母から娘への台所の知恵と技の伝承」だった。初期は母親から何を学んだのかなどを聞きつつ料理してもらって、「大変好評をいただいてきました」と王堂氏。

女性が登場する印象が強いコーナーだが、時代の変化を受け、男性が料理するケースも出てきたという。王堂氏によると、「ある放送では料理に苦戦する女性を一緒にいた男性が手助けして、見事に料理を仕上げたことがあり、完成した料理を2人で味わう姿をほほ笑ましく眺めることもありました」。

「失敗を面白がるだけでなく、TRYしてもらうこと、そしてそれを放送することで、料理の楽しさを知っていただいたり、キッチンでのコミュニケーションのきっかけになってくれたらと、出演者も制作スタッフも心から願い、日々制作しております」(王堂氏)。過去に失敗した女性がその後精進して本物の料理人になり、再出演したこともあるそうだ。

料理ができなくて困るのは女性だけではない

つまり番組側には女性を辱めたり、笑い者にする意図はない、ということだ(実際、出てくる女性たちはあっけらかんとしている)。しかし、出演する大半が女性で、恋愛や結婚について聞きつつ料理技術を試すのは、「女性は料理できなければ恥ずかしい」「料理下手の女性は結婚できない」と主張しているように見えても仕方ないのではないか。

2つ目の要因は、ライフスタイルの多様化に合わなくなっていることだ。共働きが多数派になり、家事をシェアする夫婦も増えた。シングルの男女も多い。女性が皆結婚して主婦になる時代ではなくなっているのに、女性だけが若いうちから料理ができないと恥ずかしい、と決めつけるのは、主婦になる女性が多数派だった昭和の感覚を引きずっていると言わざるをえない。

加えて、今は「料理を作らなくても生きていける」時代でもある。外食や総菜などの選択肢が豊富にあり、むしろ凝った料理などしないほうが安上がりに生きていけるかもしれないほどだ。

一方、料理ができなければ困る可能性は男性にもある。一人暮らしを始めた男性はもちろん、離婚・死別などで妻を亡くした男性も料理しなければならないかもしれない。家族の介護や育児を抱える男性もいる。持病を抱えて食べるものに制約ができることもある。

ライフスタイルによっては、結婚後に夫が料理を担当することもあるだろう。必ずしも女性だけが、若いうちから料理が得意でなければならない必然性が薄くなっていることも、番組への違和感を持つ人が増えている背景にはあるのではないだろうか。

3つ目の要因は、人権意識そのものの変化だ。一昔前なら被害者が泣き寝入りしていた権力者の行為も、今はパワハラやセクハラと抗議できる時代になった。「上から目線」という言葉も定着している。そんな時代にできる者ができない者を笑う行為を公共の場で続けることは、現代の感覚からはずれていると思われても仕方ないだろう。

家事全体を夫婦で協力するのが理想、というが

番組開始から30年経ち、番組を見る人たちの生活や意識は大きく変わっている。こうした中、制作側も「女性の社会進出が進んだ現在、家庭において主に女性が料理をするという考えは過去のものになっていると思います。料理のみならず家事全体を夫婦で協力して行うことが理想だと思いますし、それぞれの家庭でそのように取り組んでおられることだと考えています」(王堂氏)としている。

「その上で、男性女性を問わず、料理をすることはすばらしいことだと思います。食べてくれる人、食べさせてあげたい人を思って料理することは、喜びも感じられることなのだと思います。失敗したとしても、TRYすることは楽しいことではないでしょうか。しかもその中に、祖母や母の味を伝承し、料理に生かしている人がいたら、それは素敵なことではないでしょうか」とも問いかける。

制作者側には悪意はないだろうし、誰かに食べさせてあげたいと思ってトライすることは悪いことではない。しかし、視聴者、とりわけ、女性が違和感を抱く作りになっていては、その意図も台なしではないだろうか。

「家庭において主に女性が料理をするという考えは過去のものになっている」という認識であれば、コーナーに出てきて料理するのは、若い女性だけでなく、男女半々でもいいだろう。「祖母や母の味を伝承している人」をすてきだとするのならば、母や祖母から教わった腕前を披露する女性の例をもっと増やさないのはなぜなのか。


平成も終わろうとする今、お茶の間を長く楽しませてきたコーナーだからこそ、見せ方を再検討するべき時を迎えているのではないだろうか