「余命宣告は人を殺す」(2)  「侵襲と寛解の世界」と向き合う「私」と「家族」そして「医学」。マイクロバイオームから見た生命。

世界は私たちの望むようではない。
常に傷つけ、破壊しようとする世界から自分自身を守るために生命はコロニーを作る。
同じ利害を持つ生命が集まり、互いの役割を分担して守り合う.....様に見える。


しかし、それはあまりに擬人化しすぎている。

生化学を学び始めて少し経った頃、最大のネックは「擬人化」であると知った。



環境に最も「適している個体」が最も数を増やす。
そして、個体の増加は環境を変える。
変わっていく環境は「新たな個体」にとって最適な環境になる。

そして、コロニーは変わる。
かつて栄華を誇った個体も、新たな環境の中では少数派となる。
そして昔を懐かしむ(笑)。




「侵襲」というのは医学用語である。
注射や手術、処方や投薬、カウンセリングや余命宣告、いずれも患者に何らかのダメージを与える。
もし医者以外がやったら、様々な責任の追及が行われる。
民事訴訟や刑事訴訟の対象ともなる。



家族は侵襲的である。
親は子供に対して、「禁止と許可」を繰り返して、世界への対応を覚えさせる。
「言語=知識」ではなく、「禁止と許可」である。
親の禁止と許可に従わなければ「アメと鞭」が与えられるのである。

このプロセスを通じて生命は環境への適応を学ぶ。
つまり、「親」こそが環境のメインプレイヤーなのだ。

三つ子の魂百までとはよく言ったものである。

今日本に「言語を理解しない人間」は何人いるかと聞くとほとんどの人はほぼ0人と答える。識字率と勘違いをしている。3歳児までは音節の区切り方を知らず、6歳児までは単語しか知らない。文法(単語の順番や形を変えることで意味を変える)を理解するのはもっと後である。そして自分なりの欲望をコミュニティで実現するのは16-18歳くらいからである。つまり、僕らも含めて人生の1/4は言語を介さないコミュニケーションで成り立っているのである。



マイクロバイオームに話を移してみよう。
肉片が(冷蔵庫から出されて机の上にあるとする)ある環境にあり、(降り続ける)様々な細菌がコロニーを作り始める。

肉片という「活動を止めた生命」は侵襲に対しての戦うことを止めている。
このプロセルをよく考えてみると、肉片を腐敗させていく細菌は自分を増殖するために細胞の外で生化学物質を「消化」している。そして細胞内に取り込める形になったところで細胞内に取り込んで様々な物質に代謝する、この全てのプロセスは実に狭い範囲の「環境:温度・湿度・塩分濃度」の元で行われる。「恒常性:ホメオスタシス」は生命の基本であるが、それは真核生命(目に見える大きさの生命)のコロニー側から見たものでしかない。

免疫という「ウソッパチ(擬人化された)の言葉」が停止しているのである。
免疫とは、「白血球と呼ばれる、無慈悲な壊し屋」が自分(白血球)を維持するために、「破壊するマーカーのある生命」を破壊しているだけである。生物自身の「自己とか他者(擬人化の最たるものである)」を認識しているわけではない。

やがて、「白血球」も破壊されるが、破壊した構成要素は新たな生命の元になる(オートファジーという考え方は生命の定義を大きく変えるだろう)。



肉片は「死」んでいる。
死とはその肉片を構成している「私細胞」が生きることのできる環境(生命というコロニー)が維持されなくなっている状態である。「私細胞」は厳しく制御された環境の中でしか生命活動を維持できない。
独立して生きて分裂出来るマイクロバイオームとは大きな違いがある。

「生命活動の維持」とは他の「私細胞」の環境下で存在することである。
分裂も増殖も、死さえも「私細胞のコロニー」では厳しく管理されているのだ。







生命活動は単純に環境におけるマイクロバイオームの生存の形として考えることができる。

しかし、私たちは、人を愛し、死を恐れ悲しみと喜びの間に生きる。
そこが問題である。


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