アドヒアランス、コンプライアンス治療中断とはなにか
しかし、「アドヒアランス、コンプライアンス」と言う言葉をほぼ知らなかった。
コンプライアンスは知っていたのだが、こういう文脈の中で使われるのは知らなかった。
検索してみたが、本は少なかった。
何故だろうか?
この言葉は、エイズのARTを調べていて見つけたページから、知った。
2001年のWHOの指針の中に出てきているそうなので、ずいぶん昔からの問題のようである。
単純に「残薬の問題」と考える研究者は多いようだが、それで終わるような問題ではない気がする。
終わることのない治療の問題である。
それは、『「病気」に対しての治療』というよりも『「老い」ることに対しての姿勢』と言った方が近い。
かつては家族と言うコミュニティが担っていた役割である。
母はなくなる数年前から箱いっぱいの薬を飲んでいた。
まさにポリファーマシーであった。
患者が訴える症状に対しての投薬は当然ながら多種に渡る。
そもそもの問題は、何故、そんなに多くの問題があるのかである。
食事である。
作って持っていこうかと言っても、大丈夫だ、自分でできると言うのであった。
凝ったおかずが作れなくなり、自然とご飯の比重が高くなる。
母の舌が真っ白で、食べるものもほぼ何も作れなくなってきたのだ。
僕の「糖尿病との付き合い」が始まり、毎日僕が作って持っていくようになった。
母の食事も変わっていった。
やがて、母は薬を飲まなくても良くなっていく。
妻には「あなたが一番の薬だ」と言われた。
自分の体が衰えていくことは恐怖以外の何物でもない。
医師に直してもらえると考えるのも無理はない。
しかし、それは間違えである。
生命はあまりに複雑で、直線的な解決など無いのだ。
僕は糖尿病という病気になったおかげで、その恐怖に直面した。
僕は医師の処方に従わないで、自分として生きていける食事を探している。
めんどくさかったり、大変だっったり、家族と喧嘩したり、先が見えなかったり、もうどうでも良くなったりしながらの人生である。
単純に医師の言うことを聞いて薬を飲んでいれば病気は治るのだろうか?
考えることしきりである。
この問題は単に患者を「主治医はなたです(だからしっかり私の言うことに従いなさい)」などと持ち上げたところでなんともならない問題である。
治せもしない「老い」に対して薬を売りつけるのは止めたほうが良い。
いずれ自分の問題になるのだよ。
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