「人生痩せたり太ったり(仮題)」のコンセプト(1)

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「幸運な病」は『僕と妻、そして母』の3人が僕の糖尿病と向き合った物語である。
「血糖値自己測定」という不思議な機器が生み出した奇跡と言ってもいいだろう。
なにせ、糖尿病と診断されて、25年間結局生活を変えられないままに過ごしてきたものが、変えることが出来たのだから。

そして、何故「食事」を変えられなかったのかということを考えました。
「家族・医療・教育・介護」と言う私達の社会の仕組みにも深い関係があることにたどり着きました。

そしてその問題は「権威」という私達が群れを作って「生きていく上で従う仕組み(コミュニティ・プロトコル)」にこそ根元が有ることに気が付きました。



生活習慣病」と呼ばれている一連の「病気」には共通する特徴があります。
1)「測定値」と「現象」の間に関連性が有ると思われている。
2)最終的な問題は取り返しのつかない身体の部分的で組織的な死







「幸運な病」を様々な人に読んでもらったら、具体的に何を食べればいいと行っているのかが知りたいということを言われます。
そして幾つかのレシピを話すのですが、どうも意図する所が伝わりません。

知識の問題かと思ってみますが、コレがまた伝達が難しい。
僕自身、25年間、知識は集まっても、決して生活の改善には向かわなかった。





「食事が大事だ」と誰でも言う。
そういわない人間はいない。

しかし、どうすればいいかは誰もわからない。
そしてあたかも、競争のように健康情報を「お勉強」する。

「白衣を着た誰か」に採点してもらい満点だった所で、人生の終端でのピンピンコロリが保証されるわけではない。
親の言う事きいて、いい大学出て一流企業に務めた所で幸せな人生であるかどうかの保証がないのと一緒。



ではどう有るべきかという事を考えています。









次の本は大きく分けて以下の3本に柱になる

1)「健康情報」に関するもの
   「代謝の栄養学」の提唱
現在の栄養学は「政治的に正しい栄養学」で「皿の上の栄養学」である。
問題は僕の提唱する栄養学が、決して正しいという保証があるわけではない事だ。
人の体は複雑系で、単純な因果関係では説明できない。
所が、多くの医薬品は単純な機能しか持たない。合わせて処方される場合もあるが、前提として、病状の相互の共鳴の結果などは考えることはない。
エビデンスではなく、ナラティブ重視(注1)の治療である。


2)「実際の生活」に関するもの
   「レシピ批判」を通じた生活の提案
レシピ本は綺麗で、その舞台裏は隠されている。
ダイエット本は「簡単・誰にでもできる・すぐに効果が出る」というのがコンセプトである。
しかし、簡単で誰にでもできて、効果があると言うならば、何故皆やっていないのだろうか?
嘘は書かれていないが、本当でもない。
あなたにとっては簡単でも、僕にとっては不可能なことなのだ。

しかし、生活習慣病に向き合うには「食事」というツールは必須である。
自分自身にとって出来る食事の組み立て方を感じ取ってもらいたい。


3)「社会の構造」に関するもの
   身の丈にあった「グローバリスム・アウトソーシング」な生き方
社会という「群れ・コミュニティ」は自分だけでは出来ないことを互いに助け合うことで成り立っている。
アウトソーシングと言うのは私達の本能なのである。
そして、それこそが「人間」という種を大きくしてきた。
1980年代からの社会の変化は大きな歪を生んできている。そして多くの個人的な不幸はそれから派生しているのである。
もう後戻りはできないが、もっと変わることは出来る。
そう信じることこそが重要であろう。







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注1 : エビデンスではなく、ナラティブ重視
エビデンスとは「演繹的」である。
「人の体の仕組みという仮説」から、特定の個人に対しての対応を考えるやり方である。
娘がリレンザで異常行動を起こした時に、医師は『「リレンザ」には副作用はないのですがねえ』と言った。
コレがエビデンスベースの医療である。

ナラティブとは「帰納的」である。
特定の個人に果たして「一般的な仮説」が適応できるのかという疑問が先にある対応である。
厚生省は、余りにリレンザに副作用の報告が多いので注意書きに副作用があるという文章を追加した。
コレがナラティブである。


この患者に向き合う姿勢の違いが重要である。

ナラティブにおいては「医学的な知識」は「権威」ではなく、常に検証され続けるべき「仮説」として考えられる。
日本の医者が書いている「ナラティブ」の本を読んだが噴飯物であった(僕はご飯を食べないが)。
患者の誘導尋問方法の手引書なのである。

そもそも、医者というのは、中学高校と親の言う事聞いて一生懸命勉強していい成績を貰って大学行って国家資格をって.....と誰か「権威」に評価されることが人生である。
そういう風にトレーニングされてきた方々は、批判的に現実を見ることは無理だ。

そういう人たちに、自分の人生の大事な部分を任せていると思うと、憂鬱になる。
とは言っても、もう任せてなどいないが。