幸運な病のレシピ 400回記念(笑) 厨房仕事はめんどくさい。 フィールドワークの場としての台所 新しい家政学

幸運な病のレシピも400回を越えた。
いつまでやるのかなと思いながら「毎日の厨房仕事」を動画にしている。




「長くて、みていられない」と言われるが、当たり前である。
他所の家の台所仕事など見ていて楽しいものではない。

誰もこれを見て真似してもらいたいなどと思ってはいない。
真似してもろくなことはない(笑)。



これは僕が毎日、食事を作っている証明なのだ。
どんな料理を作っているかの記録なのである。

この毎日の食事作りから何かを見つけたいと思っている。


父の食事を毎日作っている。
やがて、僕が89歳になった時にこんな食事が欲しいと思っている。



そして、僕が見つけたのは「食事を作ることの価値」なんだ。






僕の動画に「素人だね怪我するから止めな」「参考にならない」などというコメントを寄せる輩がいる。
考えてみてもらいたい50年前は家族で食事を作るのは普通だったのだ。
しかし、今では家で素材から食事を作るのは少数派だ。


確かに料理を毎日作っているという人は時折いる。
しかし、ご飯たいたりパン焼いたりパスタ茹でたり、出来合いのソースで肉を焼いて「作る」のである。


現在の「食事」の骨格は「炭水化物」である。
「主食」に「おかず」という形は金額的にも、調理時間的にも、使用サイクル(購入=貯蔵=廃棄)的にもリーズナブルなのである。

何よりも「炭水化物」は美味しい(嗜好品)なのである。問題はそこだ。
そのために外食産業は利益を出しやすいし、食事行政(学校給食・病院・介護施設・刑務所)も行政の利用者も喜ぶ。
食事行政は120万人(免許交付数)を超える栄養士・管理栄養士を抱える大きな行政部門である。

ここに問題がある。

ネットでの『調理サイト』は大流行である。
しかしそのどれも毎日続けられるとは思えない。
レシピ本も数多くでているが、栄養学の知識の焼き直しである。
また著者が本当に病気と向き合って続けているんだなあと感じられるものは少ない。


「厨房仕事」は簡単ではない。料理を舐めちゃいけない。

生活習慣病に代表される「原因」を特定できない災厄は「健康」を守るという重要な役割の『家族』を行政にアウトソーシングしたために起こっているのだ(正確には、食事行政が表面しか見ていない所に問題がある)。


そして、後片付けは奥さん任せである(以前の僕のようだ)。
奥さん(生活のパートナー)は、作ってくれるのは良いけど、思いっきり散らかるから嫌だと文句をいう。
喧嘩するのは毎度のことだった。




糖尿病は食事療法がメインだと言うが、奥さん(生活のパートナー)に大変な負担を掛けることになる。
先立たれたらどうなるのだろうか?
現実的でない解決策を提案した所でそれは「病は患者の自己責任」と責めるための(医師の)アリバイ作りにしか過ぎない。


自分で病と向き合うということは、医者の言いなりに薬をのむことではない。
自分の父母の食べてきた食事を思い出しながら、今の自分に必要な食事を見つけ出すことなのだ。

やがて娘と息子も50歳になり、89歳になる(運が良ければであるが)。
その年になった時に、父母がどんな食事をしていたかということは少しは参考になるかなと思う。
今の僕が、父母がどんな食事をしてきたかを想像するようにである。







そこで決心をしたのだ。
料理作りも後片付けも、買い物も皆僕がすることにした。
どうせいつかどちらかが先に死ぬ。
一人残されたら、一人でしなけれっばならない。

そして、幸運な病のレシピは始まった。
おそらく2016年の終わりくらいから後片付けまで僕がやり始めた。

大変な冒険であった。











2015年僕は食事療法を始めた。
長く苦しかった足のしびれもほぼ軽くなった。指先の感覚が戻ってきている。
早朝高血糖も、酒を飲まなければ起きないことがわかった。
運動は人生の余裕のある時に、楽しみのためにする。

おそらく、大きなトラブルが起きることはないだろう。

そして、この3年間の体験は非常に面白いものだった(と言うか今でも続いているし今のところ止める理由はない)。



食事で人は変わる。


しかし、食事を変えるということは難しい。テレビで流れる情報を知れば、生活が変わるわけではない。

理念としての方向(食事のポリシー=何が自分の未来を幸福にするのか)も、具体的な手順も、友人関係などのコミュニティ的にもどれをもとっても問題は山積である。

なおかつ、年を取りながら食事を調整していかなければならない。難問である。食事作りは簡単ではない。





そうして、この問題(家庭から料理が消えた問題)は単に『「糖尿病」の食事療法』で終わる話ではないと気がついた。
医学、生化学、栄養学、調理学に始まり、社会学精神病理学、社会構造論、生態学、生物学、文化人類学、経済学、統計学、老人学、教育学、法律学、ありとあらゆる「学」の専門書を読んだ。

結局、今私達が直面している『生活習慣病という災厄』はこれらの「学」がバラバラにそれぞれの専門分野から見えるものに対して対策を提案している。
皆、年老いていくこと・生活習慣病に襲われることが恐ろしいのだ。
その恐怖から様々な発言をする。
しかし、それぞれの考察は「問題解決」には程遠い。





そしてそこにビジネスチャンスを見るのだろう。
僕も本を売りたい。しかしそれ以上に自分の80歳の社会をなんとかしたいと思っている。





あらゆる人間は「老いる」。
かつて老人は苦しむこと無く突然に死んだ。
生き残った家族は喪失を感じ『送る』。
そして残された家族は新しい役割を担う。


今では多くの老人は「苦しみながら死ぬ」。
医学は簡単には殺してくれない。
年金や行政サービス(医療)は、どんな状態でも生きている限り消費される。
そしてその対策は決して私達の不安を解決しない。

そしてそれを見るのは恐怖以外のなにものでもない。













毎日食事を作りながら、これほどに「厨房仕事」が難しいとは分からなかった。
まさに厨房仕事のフィールドワークである。
この3年間のフィールドワークを本の形にすることにした。





生活習慣病は社会の環境の病であり、個人の責任に帰することは適切ではない。

1.グローバリズムが「アグリビジネス」を成立させた。
2-1.同様に、グローバリズムが自営業や小規模農家を破壊して、家庭と職場の距離を作り、「家庭」というシェルターを消し飛ばした。
2-2.従来家庭で「個人の身体にあった食事」を作っていたものが、外部に委託せざるを得なくなった(食のアウトソーシング)。
4.食事行政の指針としての「カロリー栄養学」、医学の「標準的な人間像」が誤った方向へ対策を導いている。


マイクロバイオームに操られ「渇望」に負ける個人の問題ではない。
尽きることのない渇望に、私達はそもそも勝ち目はない。

「家族というシェルタを失った人間のサガ」につけいる社会の問題である。
無論、権威に従順な消費者となっている市民にも問題はあるが、無知のままでいさせようとする社会のほうが悪い。



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なぜ「父母の食べてきたものが重要」なのか?

私達は、受精卵に起因するDNAゲノムが元になっている細胞の集まりである。
マクロな生命と言える。
胎児の頃の環境、出産を経てマイクロバイオームと共生を始める。


共生している「マイクロな生命たち」は周辺の環境(食べたものが液状になり)の中で、必要な物質を取り込み様々なメッセンジャーを放出する。
身体全体から見たら、あたかも目的を持っているように見えるが、個々の「細胞生命」にとっては全体などはない。単純な化学反応である。



そもそも、どこまでが全体なのであろうか?自分はどこの一部なのだろうか?

全体にとって重要な意味がある存在であることを私達は気がついていない。

しかし、そんな議論に何の意味があるのだろうか?









周りの物質に対して、それぞれの細胞は「適応」を続ける。
外部のメッセージを受け取る受容体タンパクを作ったり破壊したり、ATPの需要が多ければ(あたかも牧場で牛を飼うように)ミトコン不ドリアを増やしたり自分自身を生き延びさせるために様々な反応を起こす。

その様に複雑なプロセスを踏んで数多くの細胞は2つとして同じ物はないのだ。



父母は「DNAゲノム」の半分を共有している。そしてマイクロバイオームは全く違う。
食事環境が、父母と、もし同じだった場合はその子の細胞の「適応」はにたものとなるだろう。
ミクロの細胞生命の適応とマクロの生命の因果関係は想定しづらい。
しかし、私達は経験上から家系・血筋と呼ばれる「関係性」が有ることを知っている。


「マイクロな生命たち」は様々なメッセンジャー(タンパク質)を発する。
そして、それらの密接なやり取りは環境を変え、環境の変化は様々なメッセンジャーを発する。



「家族」というシェルターを基盤としたネットワークであった。
汲み取りトイレ、小さな生物、風邪を始めとする感染症、セックス、食事、ハグ、握手、ノミ取り、毛づくろい、あらゆる環境がそのネットワークの基盤である。
政治、宗教、家庭といった「私達を記憶する装置」がその基盤の上に乗っている。





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