幸運な病のレシピ( 693 ) 夜明け前:缶詰で一杯、父の寛解、「食事には力がある」。
今日の食事が死に方を決める、明日の食事が生き方を決める。
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【 2018/10/21の食事 】
今日、実家に行ったらマヨネーズのパックの下半分をハサミで切ってあった。
ちょっとびっくりである。
母が元気な頃、最後の一滴までマヨネーズ青使うために、パックの下半分をハサミで切ってとり出していたのだ。
もう何年もそんなことしたことがなかったのに、しているではでいか。
朝の5時である。
電気がついていたので、顔を出した。
やっぱ、一杯やっておった。
お、一杯やっているねというと「ばれたか」と答える。
コップに箸を立ておいて「ばれたか」もないだろう。(笑)
昨日の夕食のお土産(11時くらいに一回起きて一杯)はもう食べたようで、缶詰を開けておる。(笑)
僕にとっては、父に食事を作ることや生活を一緒にする事は「介護」でも「面倒なこと」でもなんでもない。
自分の30年後を見つめて、今をどう生きるかを考える試みなのだ。
かつては、「家族というシェルター」が守り伝えていた「食事という価値」を「失った母の姿」を思い描きながら見つけようとあがいている。
誰かにとって意味のある言葉になると信じている。
皿もきれいに洗うし、食べおわっった缶詰もきれいに洗ってある。この半年くらいのことである。
父は確実に元にもどている。
母が亡くなった当初、ずいぶんひどかった。自分の事は何もできない。怒りやすくなったり、無関心になったりずいぶんひどくなった。
しかし、食事を毎日作りながら、父の心を理解しようと必死になった。
徐々に、わかってきた。
他人事ではなく、自分の事と考えれば何も不思議は無い。そして、皆が通る道である。
とは言っても、戻ろうにも母が亡くなったことには変わりない。
喪失の後に生まれた「家族」に馴染んでいく。
人は関係性の中に生きる。
父の寛解である。
医師や研究者は「エビデンスが無い、個人的な体験に過ぎない」と言うだろう。
「一般的な法則や普遍的な事実」を求めるのが科学であるのだから、確かに「エビデンス」は必要だ。
しかし、科学は「人の幸せ」を目標にしなければならない。
幸せは統計の数字には現れない。
その人の語る言葉の中にしか見つからない。「ナラティブな関係性」の中にしか存在しないのだ。
しかし、僕にはまだ辛い。
まだ悪夢を見る。
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