庭師さんが来た(2) 人生の寛解(注1)


まずは朝食である、妻の分と2人前を作る。
この時期はトマトを箱で買って食べる。
一箱安いところで700円、1000円以上の時は買わない。
毎週一箱というところだろうか?



刻んで、目玉焼きに入れて食べるのが好きだ。
鶏ハムをセロリの葉の部分と炒めて、トマトを投入して、卵は蒸す。
食べる時は黄身と混ぜて少し醤油を垂らす。



庭師さんの一日弟子入りをして、汗だくの日だった。



体重が随分減ったが、そもそも抜けた水分の分なので、夕食を食べればまた増える。
この変動は恒常性の維持のための変動である。
脂肪は燃焼しない(笑)。


作るのが大変なので、お寿司を買ってきた。
牛肉と木綿豆腐の鍋にした。





夕食ができたので迎えに行ったら、起きていた。







僕らは食べ始めていたので、実家に料理を運んだ。
持って行ったら既に酒をついで待っていた。




自宅で、食べ終わってコップに入れたワインを持って訪ねた。
父も食べ終わっていた。
寿司が一つ残っていたのを食べて庭の話をした。
妻が縁側から上がってきて、話に入ってきた。


長く、僕ら夫婦は喧嘩ばかりしていた。
何度離婚しようと思ったことだろうか。




半分は父と母のことだった。
あと半分は子供の教育に関してである。
そして基本には、僕の仕事の不安定さと糖尿病があった。




妻と結婚した時、彼女は仕事を辞める事になっていた。
しかし、父(母の意向で)は、結婚した後で、『こんなこと言うと嫌われると思うが、直子くんは仕事辞めないほうが良い』と言ったのである。
まあ、僕の仕事は当時鉄工所の工員で手取り13万円ぐらいだったろうか。
彼女は一部上場会社の現地採用組で、新潟水準からは考えられない給料とボーナスで、大変な資産家であった。
誰だってこんなこと言われれば怒り、顔も見たくなくなる。
その後10年、両親とのトラブルは僕の母の「他人を心配する余計な心」に源があった。
しかし、何故そんなことを心配するかと言えば、父母の歩んできた人生から出て来たのである。
全くの赤の他人にはそんなことを言わない。
共に生きなければならないからそんな言葉が出るのである。

「侵襲」と言う言葉がある。

侵襲とは、「病気」「怪我」だけでなく「手術」「医療処置」のような、「生体を傷つけること」すべてを指す。 なぜなら、病態であれその治療であれ、侵襲に対する生体の反応は同じであり、それを知らずして(侵襲を以て)人を治療することはできないからである。 英語では、形容詞形のinvasiveとして使われるケースが多い。

生活習慣病としてのうつ病」には大変おもしろいことが書かれている。
医師による「傾聴・支持・共感」と言う対応がうつ病の病状が悪くすることが多いという指摘である。
これは面白かった。

ナラティブの問題点を実に明確に語っている。
他人の人生を心配するということは実は傷つけていることなのである。

「かぐや姫」と言う老害の映画を見た時もそう感じた。






喧嘩というのは、喧嘩になっている2人の当事者の問題ではない。
多くの人が絡み、そのコミュニティでの価値、利益や支配欲を含む欲望の充足が図られる。

困難な現実に向き合う時に、どう変わればいいかわからないから起こるのである。


一度だけ彼女をぶったことがある。
その時は離婚するつもりだった。ぶったことを一生忘れない、そして二度としないことを誓った。
僕は何度もその時のことを思い出す。
彼女の母が亡くなり、父と母は相変わらず元気で、僕には肉親が亡くなると言うのがどんなことかわからなかった。


息子が生まれた時は、離婚するつもりで、朝6時に妻のもとに行った。
この時も、彼女の家族とうちの親の間の行き違いが原因で、間に入った人良かれと思い行った言葉が原因であった。
二人っきりで向き合った時に、あっけないくらい、共に生きようと感じた。



2016年にも深刻な状態になった。
この時のことは、1冊本が書ける。
そして、そんな諍いから「幸運な病」は共著になった。





喧嘩しないことが仲のよさを意味するのではない。
共に生きようとするから、そして、自分でいようとするから、喧嘩になるのである。








父と妻と3人で話をしていて、不思議な感慨にとらわれた。
長い諍いから和解が訪れたのだ。


これこそが、『寛解』というものであろう。
共に長い時間過ごす頃で、雨粒が岩に形を與えるように、風景に馴染んでいく。






フォレスト・ガンプ」の中で、両足を失ったダン中尉が神と和解するシークrンスがある。
寛解という言葉で、僕はいつもそれを思い出す。






あの映画を僕は大好きだ。






ガープがジニーに自分の見てきた風景を語るところもいい。
ジニーが人生に向き合っている時に、ガンプは走り続けていたのである。


結構トム・ハンクスって好きなのだ。
ビッグが大好きかもしれない。









家に帰りもう少し飲んだ。
最初にこの庭をつくった造園の会社さんの話をした。

血糖値を測り、眠った。




小茄子をつけるのだが、このへんでしか食べれない。
そもそも、この大きさのナスがよそではなかなか見れない上に一晩つけると食べごろなのである。
浅漬け一種なのだが、実に微妙な技が必要である。


僕より妻のほうが上手である。





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注1 : 人生の寛解
寛解とは医療の用語である。
『全治とまでは言えないが、病状が治まっておだやかであること。』と定義されているようである。
もう諦めなさいということである。
諦観とか言う言葉もある。

自分の支配力がなくなった時に、訪れる諦めとも考えることが出来る。
僕は炭水化物を食べると血糖値が高くなる糖尿病という病気である。

炭水化物は美味しいし、諦めきれない。これは僕の身体を形つくる細胞達の望みである。
なので、抗うことはできない。
しかし、インスリンや薬では多くのトラブルが起こることを知っている。
無論、反対する医師もいる。

僕は選択したのだ。
今まずまずの所で炭水化物を食べない生活ができている。

欲望(永遠の命)と、生活(年老いていくという現実)の均衡点である。

父が母の死からの生活の変化に向き合っていることを見ているとそう思う。