今日は四十九日、写経な日々

母が亡くなったのが1月5日である。


今まで肉親の死というものを体験した事がなかった。
驚いたことに、どうにも心が落ち着かない。

33歳で新潟に返ってきて、人生に絶望していて、様々なことがあって、家族を持って、いつも父母がいて、時には笑い、喧嘩して、いつの間にか母はボケてきて、子供に戻った母と僅かな時間を過ごして、失った。

この土地に帰ることがなかったら、こんな気持にはならなかっただろう。





ある人に「男にとっての母親の死というのは特別な意味がある」と言われた。
確かに、女は子供を産めるが、男は産めない。
人は空虚の中から生まれる。

女は空虚の中に子を産み、生命を残す。
男は産んでくれた母以外にすがる物がない。



空虚感という言葉の意味を初めて知った。




宗教など妄想だと思っていた。

仏壇屋さんの営業の人に写経を勧められ、どんなものかと始めて半分くらいまで進んだ。
唱えながら、書いている時に、感じる安らぎは今まで体験したことのなかったものだ。

信仰に意味があるかはわからない。
しかし、この心の落ち着きは明らかに有る。

四十九日というのは、なくなった人の霊が仏様になる日なのだそうだ。
ちょうど、残された家族の気持ちが落ち着くのと同じような気がする。

毎日2枚ずつ般若心経を書いていた。
朝唱えながら書いていると、父が起きてきて声をかけてまた眠る。
写経は、もう死んでしまった母のためではなく、生きて孤独に苦しんでいる父のためなのだ、そして僕自身のためだ、と、どこかで気がついた。

実効性のないものがこれだけ長い歴史を持つはずがない。写経は普遍性をもち、同様の行為はあらゆる宗教にある。

母の死後、随分酒が多くなった父の酒が少なくなってきた。
僕は、父の姿を見て、毎日の晩酌を止められた。
体重も随分減った。
たぶん来週には80kを切ると思う。

母のお導きである。
チト本気で考えているのである。





7日毎の法要(やらなくてもいいということだったので、やらなかったが)の意味ってあると今は思っている。
深く傷を負った患者へのケアなのだろう。

時間的な間隔や毎週の訪問はまさに傷ついた人を癒やす。
宗教というのは、当然、その内部において治療という側面を持つ。



ケア、癒やしというものを今考えている。
この時に、この体験は、やはり母のお導きであろうか。
チト本気で考えているのである。



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