自己変革は可能か(2)教室の親としての教師、家庭の教師としての親

今、「百年しばた」で教育の問題についてのペーパーを作った。

思ったことは伝えるのが難しい。
思いのままに書いたら今ひとつなのである。
20人位の友人に読んでもらったのだが、教師の反応が今ひとつのあのである。


それはそうである。
学校のPTAでの体験がトリガーになり、今の気持ちが有るので、どうしてもそう感じてしまう表現になっていた。

一番書きたいことが感じられないことがわかった。それは、教師と親の連帯である。

モンスターペアレンツ問題というものが有る。

親が教師のもとに「子どものイジメ」を相談に行くと、とにかくなだめられる。
そして、望むような解決をえることは出来ない。
繰り返すことで泥沼化していくのである。
当然ながら、教師は自己防衛・組織防衛の本能が働く。

同じように、親は自分と子どもの関係を省みることが難しい。
そこには厳しい現実が横たわっている。

それは残念なことであるが現実なのである。

40人の子どもがいると考えてみよう。教師の大変さが分かる。
子供達のすべてを見ていることなど出来ないのだ。
家庭で2人の子どもの喧嘩を諫言の困難を考えれば分かる。
誰かが家庭に入ってきて親に文句をつけたらどう思う?


「教室という家庭」では教師は親なのだ。

「家庭という教室」の中で親は教師なのだ。

互いに共感しあって、伝え合うことは出来るだろうか?





誰かがイジメられているという問題の解決は難しい。
教師にいじめっ子に対しての指導なりを求めても多くの場合効を成さない。
応報的司法のパラダイムの中では解決は難しい。
教師は裁判官でも判事でも警察でもないからである。


家庭での兄弟喧嘩を考えてみよう。
兄弟の間では、長い相互の関係がある。
取っ組み合いが始まった時に、直接の原因を問いただすことはあまり意味が無い。
二人の関係の連鎖の言い合いが始まる。

夫婦喧嘩も同じである(笑)。
出会いの時から、互いの親の文句、なんでもありである。






重要な事は、互いに共に生きる決意なのだ。





教室というパートタイムの家族も同じである。
時に生涯の親友(家族)を見つける幸運と出会えることも有る。


重要な事は、『市民としての生徒が「共に生きる」ことの価値』を信じられるかである。


僕自身、もっと、いろいろな人の言葉を聞いて変わり続けなければならない。



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