ソーシャルスキル批判(4)デートレイプについて考える授業

中学二年生になると、デートレイプの授業が有る。

要約すると内容は。
1)男の人に迫られた時、はっきりと「嫌だ」と言いなさい。
2)女にひとに「嫌だ」と言われたら、やめなさい。

誠にそのとおりである。

ソーシャルスキルと言うのは、自分の意志をはっきり伝える技術なのだから、まさにこのとおりである。
もし、レイプに発展したら、それはソーシャルスキルが足りないためだとでも言うつもりなのだろうか。

男の言い訳は、「二人きりになったのだから、誘われていたと思った」である。


教師は「自分たちは教えておいたのにそう出来なかっただから、生徒の責任だ」と考えるのだろうか?

責任転嫁もいいところである。まあ、「自己責任」と言うのは官僚が「無誤謬」の拠り所とするものである。



しかし、効果のないことを同じように教え続けるという事には責任はないのだろうか?

本当の教育(現実を変えることが出来る)を探す事のない(自分を変えていない=不作為の)の責任は存在する。



ヒトの性交渉は、二人きりになろうと画策するところから始まる。
みんな、グループ交際を予定しておいて、上手く二人きりになろうと画策したことは有るだろう?

その気がないのならば、二人きりになってはいけない。

僕が教えたいのは、レールに乗ってはいけないということである。


一旦、二人きりになり、SEXをしたいということを言葉に出すような段階では、「後戻り」出来ないのである。


その二人はある程度「いい感じの関係」になっていたはずである。そうでなければ二人きりになれるはずがない。
そこで告白した時、上手く行かなかった場合、その二人の関係は破綻する。
もう元には戻れないのである。
からしたら、前に進むほかないのである。

また逆に、「略奪愛」などと呼ばれる戦略を女性が行う場合もある。

これは、自分の地位を結婚という制度で確保しようという戦略である。
財産のない僕には誰も寄ってこないのは当然であるが、そうでない場合も多い。


10年ほど前に聞いた話であるが「地元の名士が老齢(70過ぎ)で妻をなくし、若い女にすべての財産を貢いだ」そうだ。

その名士の子どもからしたら、父親がどこかの女に土地財産をみんな渡したのだから腹立たしいだろう。

しかし、彼は幸せだったかもしれない。


保険金詐欺の事なども考える事しきりである。


性交渉をせまる前に、未来と言う価値を共通のものとした後に性交渉を求めなければならない事を知らなければならない。
ものには「順序」というものがある。

ヒトは(年齢にか要らず)、相手の心を自分に都合がいい様に妄想する。ストーカーの心理とも通じる。
そして、多くの失敗はそこに起因する。


ポッキーっていいなあ。

女の子は、固い決意がなければ、二人きりになってはいけない。
たとえどんなに信頼している相手でも(親だろうと、聖職者であろうとも、教師であろうとも、)どんな相手とでも二人きりになってはいけない。

ちなみにSNSとか、インターネット上のコミュニケーションツールは即座に二人きりになれるから危険である。








レイプ(パートナーの意思を尊重しない性行為)は夫婦の間でも、起こる。ヒトという生き物の雄の宿命である。だからと言って、許されるわけではないが.........
ペンシルベニア州立大学の事例を御覧ください。すごい話であるが、アメリカの強さを感じる。


そして、どの子どもにも、いつか、初めての体験の時は来る。
誰とするべきか、何を判断を基準とするべきか、どう教えることが出来るだろうか?
「銀行型学習(何をしてはいけない、何はしてもいいを伝える形の教育)」では無理な話である。
ほんとうの意味の学習(自分にとっての問題解決を探す力をつけさせる)が必要である。


どんなことを教わっても、自分が決めることである。できうるならば、役に立つことを教えてあげたい。

どんな人生を子供達が歩むのかはわからない。
あとで後悔することがなるべく少ないように自分の人生の失敗を伝えたい。失敗を伝えられない学校は残念である。




学校教育は、どこから見ても間違えのないことしか教えようとしない。責任を回避するためには必要でお見事な保身の技術である。


非難しているわけではない、そうなっている事を認識したいと考えている。
そしてパートタイムの責任は、親が持つ無制限の責任とは相容れない。



望まない妊娠をした子どもがいた時、その家族は共に生き続けねばならない。
そしてその出来事が間違えだったどうか(価値)は、未来が決めることである。
アップルの創業者ジョブズの「生みの親は出産時大学生で、自分で育てられなくて、ジョブズは養子に出された」話しは有名である。




地域コミュニティと言っても、今の私達の「地域」は単に住んでいる場所が特定のエリアであるというだけのことである。
共通の価値を持ってはいない。



モータリゼーションが、仕事場と住居の場を離れさせ、居住地のコミュニティを離れさせている。
遠くの土地から通ってくる教師はあくまで他のコミュニティの人である。
地域に共に生きていない教師は一時的な責任をもつだけである。



そして親としての教師自身の問題でも有る。自分の子供が学校でどんな扱いを受けているか心配ではないだろうか?「自分の子に限って症候群」に落ちっていないだろうか。もし。子どもが自殺したら、親の立場、公務員の立場のどちらで生きるだろうか?


教師と、ほんとうの意味のコミュニティ(親)がともに生きることは可能だろうか。
価値を共有するためには何が必要なのだろうか。

僕は、子どもと共に生きる親としての立場は、職業としての教師の立場を超えられると思っている。


大事なことは、コミュニティの中で「性」をどう扱っているかという価値の共有である。
適切な情報を与えない事が多くの問題の元である。
「社会的な性教育」と言う概念を僕は考えている。生物学的な性教育ではなく、コミュニティで個人の価値をどう実現するかの問題である。

援助交際はなぜ成り立つのか?
◎キャバクラに大金を払う男性の心はどんなものか?
◎ストーカーは男にも女にもいるし、私達はだれでも成りうる?
◎法律で禁じられていながら、売春はどのような仕組みであるのか?
◎なぜ結婚に価値を見出しているのか?


性が社会(コミュニティ)の中でどう扱われているか=「共有している価値」を私達は認識しなければならない。
コミュニティの構成員は、深く「性」というものでつながっている。

性と私達の関係はは様々な形を持っている。時代と場所で異なり、その形には理由がある。






大人と同じ様に子どもも、自分が感じている欲望(本能)と社会的な規範(コミュニティのルール)の間で苦悩する。
男と女と言う二人のコミュニティの間でも様々な駆け引きが生まれる。
その二人の属するもっと大きなコミュニティの持っている道徳規範が圧力となり、人生は動いていく。




家庭の中で子どもに伝えること、学校の場で子供達に伝えることは必要であると認識している。
家庭では、父が息子に、母が娘に自分お体験を話し、価値を共有することが必要な気がする。

いつ誰と初めてSEXを体験したか、その体験は今にどうつながっているか、伝えなければならないと感じる。
私達の内側には「性の本能」があり、どう扱っていいのか悩むことしきりである。
いつか、『人生を共に歩み、多くの体験を共有して「唯一の存在」となる』パートナーを見つけることが重要な価値であると信じあいたい。

昔、実に秀逸な文章に出会った。
僕はこの考え方が大好きである

回復への長い道のり 親ガイド ティモシー・J・カーン著 藤岡淳子監訳
P82より引用
忘れないで下さい。セックスは良い物です。もしセックスが無かったら、私たちの誰も今日ここに存在しないでしょう。

私たちは子どもたちに、性的な感情をコントロールし、ふさわしいやり方で、他者を傷付ける事なく表現して欲しいと伝えたいのです。

しかし、性行動そのものが、悪い事で、汚くて怖いものであると考えて欲しくないのです。

「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」と言う本の中でジャレド ダイアモンドさんはとても面白いことを考えている。

ヒトは性行為を隠す。これは生物的な特徴であるとジャレド ダイアモンドさんは言う。
発情している事をオス・メス共に分からない哺乳類は、一部のサルとヒトだけだそうだ。
なぜなのかと疑問に思った彼は一つの答えを導き出す。



発情している時を隠す事で、「子殺し」が無くなったのである。
自分の子どもを多く残したいという遺伝子の持つ本能は、群れのボスになった時に授乳期の子どもを殺すことで実現する。
子殺しというと、ライオンやゴリラが有名である。授乳期の雌は発情しないから、子どもは邪魔なのである。
子どもを殺すということは決して、本能に逆らった残虐な行為ではない。
群れの長となった雄にとっては当然の行動なのだ。



同時に、ヒトのように、『「群れ」を強力にする』方向を選んだ生命もある。
子どもの生物学的な父親を問わない方向である。
自分の遺伝子かどうかなどということは『血液型や遺伝子で親子関係が証明』出来るが、そんなことは「ヒト」にとっては意味が無いのである。
『財産を受け渡して、自分の老後を担保する』という非常に現在的なコミュニティの中でしか意味は無い。



カリールジブラーンさんの預言者という詩がある、その中では、子どもをコミュニティの財産と考えている。
丁度、2つのコミュニティの価値が戦っている境目の時代を描いている詩だと思っている。

明治の頃を描いている小説を読むと、夏祭りに性的に奔放な状態になることを描かれている。ウエールズの山と言う映画の中で小さな村の多くの子どもの父親がある精力の強い男だと描いている。僕の父母の兄弟と子どもは20人以上になるが、子どものいない夫婦が2組みいた。「直し」という婚姻形態がある、兄弟が若くして死んだ時にその妻と生き残った兄弟が結婚すると言う婚姻形態である。僕の父の世代では当たり前の事だった。




子どもが労働力であった時代(ヒトの進化の大部分の時期)子どもは重要なリソースであった。
誰が父親でも構わなかったのである。
コミュニティ(共同体)にとっても、その群れに子どもが多いということは戦力が高いということになるので有利に働く。

「家業」というものは、経済のグローバル化で破壊された。




「現在的な私達のコミュニティ(社会)」では多くの財産を得るためには学歴が要求される。
子どもが仕事をしてお金を売ることが出来るようになるまでには大変なコストがかかるようになる。
同時に、子どもが「家業を持った家族」にとっての労働力となることはなくなった。
単に財産を次世代に受け継ぐ「名義」になったのである。
そして自分の老後を考えると、より多くの財産を残したいと考えることになる。


こう変わったことは嘆くことでも喜ぶことでもない。現実なのだから。



『子どもが労働力としての価値である社会』と『そうでない社会』の階層的対立と言う観点から見ると色々なことが見えてくる。

また、子どもはそのような社会(コミュニティ)では兵士でもある


このCMを見た時の衝撃は忘れられない。世界で兵士として生きる子供達はどんな未来を見つめているのだろうか?放送されなかったのも「さもありななん」である



先進国と呼ばれる国々は、子どもを労働力として見ないで済む社会である。
果たして、世界全体を一つのコミュニティとして共通の価値を持つことが出来るだろうか。

小松左京は「闇の中の子ども」と言う作品の中で見事に描いている。一読あれ!








とにかく、ジャレド ダイアモンドさんは猛烈に面白い。
最新の遺伝子学の成果を援用して、納得させてくれる。
「銃・病原菌・鉄」「文明崩壊」いずれも、最近の衝撃を受けた本である。


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