人は孤独には耐えられない 上村さんの事件に思う 「ドロップアウト」のコミュニティ論

高校1年生の頃、Yさんという女の子が、秋口に突然パーマをかけてきた。
少しクラスで浮いていて、シカトされたりしていた。
上級生の「不良」グループに入り、同級生からは恐れられる存在になった。

なぜ彼女は、クラスに居場所がなくなったのだろうか?
担任や、友人たちは、なぜ彼女をハブり始めたのだろうか。


何かのコミュニティに入るのは「自己防衛」のためである。不良グループの一員となったら同級生は手を出せない。
と同時に不良グループのパシリとして使われる。
それは、クラスの中でのイジメに対向するためである。
『不良グループの庇護という価値の分配』を受けるためには何らかの貢献が必要となる。
それが、パシリとしての役割であったりする。
同時にチクリ屋は制裁を受ける。


同時にそれは孤独(という敵)に対しての仲間作りだったりする。



この事件では、警察や学校が適切に対応していないと僕には感じられる。
どこまで浮き彫りに出来るだろうか。
しかし、事件にならない世界の底には数多くの苦しんでいる子供達がいる。
私達の社会は、(またもや)彼らを無視していくのだろうか?



映画や小説で、ドロップアウトグループに入った才能ある子どもを上位のグループの構成員が抜けさせるという類型が有る。
つまり現実でも散見されるのだろう。
このことは次に書きたい。




上村さんの殺害は、「不良グループの中の殺人事件と思われている。
問題は上村さんのクラスでの位置である。


僕は、クラスの中に居場所がなくなった彼がその孤独から上級生の不良グループに関わらざるを得なかった状況を考える。


高校時代は、社会に入る直前の時代である。
無論大学に行く人もいるのだろうが、大学を卒業すれば同じ状況に直面する。
進学こそが価値であるである社会は、ひとを絶望させる。
自分がドロップアウトしたとレッテルを貼ることになる。



新発田で昔、僕が高校を出た頃、高校生が殺された事件があった。
あの時の加害者は、今何をしているだろうか。





社会の中で自分の居場所が無くなった時、人は「ドロップアウト」のコミュニティに属していく。




ヤクザのコミュニティを考えればいい。
そのコミュティでは、共通の価値(利益)もコミュニティからの逸脱者への制裁も一見すると大きく異なったものと見える。
なぜそう見えるかというと、暴力の解決に独自のルールを持つからである(検察、裁判、警察に依存していない)

翻って、(一般的なと言われる)私達の社会を考えてみるがいい。
会社が違法行為をしていることをその構成員は内部告発できない。

家庭の中でも子どもは親を告発できない。

全く同じである。

告発することで、そのコミュニティから追い出されることが恐ろしいのである。



この事件の調査委員会が発足したということであるが、問題の本質をどこに見つけるだろうか?

居場所の無くなった子供達が、異なったコミュニティを探す。
時にそのコミュニティが、同じように居場所のない、子供達の世界だったりした時、悲劇的である。


殺した子どもも、可哀想である。酒を飲んでいたと聞く。
無論事件として起こった時点で加害者の責任は問われねばならない。
被害者の親御さんの悲しみはいかほどか計り知れない。

しかし、忘れていけないのは、「行き場所のない子供達を受け止め、希望をもたらすこと」の出来なかった大人全員の責任である。

論じなければならないのは僕らが未来に希望を持っていない現実である。


考えるに辛い。





時に思う、高校時代の同級生のYさんはどんな55歳になっているのだろうか。


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