何で、娘の結婚式で涙ぐむのかなあ。結婚式のコミュニティモデルの変遷。

今朝、マルーン5のPV見て涙ぐんでしまったのだけど、なぜか考えてみた。

家族というコミュニティを作り、娘と親は同じ価値を持つ。
子どもは親が喜ぶ顔が見たいから、そのコミュニティの中で人生を楽しんでいく(様に振る舞う、実際に楽しいのだと思うが....)。

同時に娘は自分の価値を持ち、それを共有する人生の伴侶を見つける。

多くの場合、娘の価値を実現するコミュニティは親のコミュニティとは異なっている。


結婚式はまさにその象徴である。

かつて僕らの親の世代の結婚式はお座敷で上座に夫婦が座り、親戚一同が向かい合い会食をした。
2つの家族の対面であった。
そして嫁は、夫側のコミュニティの価値を持つことになる。






昨今の結婚式は、子ども夫婦のコミュニティが前面に現れる。
そして、世代を超えたコミュニティが向きあうのである。


親家族の一員として嫁が嫁いでくるというコミュニティモデルは失われて久しい。


このPVの中で最初に、プログラムにないステージの設営にクレームする親(らしき人物)が出てくる。
彼が回収されていない(皆の踊る輪に入っていない)のがちょっと寂しいなあ。




インドでは毎年多くの花嫁(2012年 8333人)が持参金の支払いのトラブルから殺される

女性が社会における家族=階級間の通貨である事実は今の日本でも観察される。
おそらく事実だろう。


とまれ、あらゆるコミュニティモデルは時とともに移ろう、その移ろいの中に私達は生きる。
移ろいこそが社会が変わっていく証拠である。

自分自身が変わる事だけが2つのコミュニティを一つにする事ができる。



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