銃規制と依存症 『嗜好品に対してブレーキを掛けていた家族というシェルター』
対策がうまく行っていないのは仮説が誤っている証拠である。
銃を使った犯罪を考えるたびに、「依存症」を考える。
僕は昔ガンマニアだった(多分今も)。
高校〜20台になる頃まで、銃の月刊誌や本を買った。
今でも、銃の名前や威力をよく知っている。
モデルガンもエアガンも持っている。
一時はカスタムナイフにずいぶん入れ込んで、大きな本格的なものを買おうかと思ったが、包丁で我慢している。
しかし、何が楽しいのだろうか?
なかな他人には伝えられない。
銃を撃っている動画サイトを見るのは楽しい。
撃っている姿、シチュエーションを見るとワクワクする(フィクションかノンフィクションかは問わない)。
その銃口の向こうに誰かの死があるとしてもである。
シューティング系のゲームにはあまりハマらなかったが、多分好きだ(すぐに殺されるから楽しくなかった)。
僕は異常だろうか?
『他人には理解できない喜びがあり、簡単にやめられない。』これが依存症の定義である。
『他人には理解されない』事は孤独を生むし、同じ喜びを感じる者同士は共感を生み連帯する。
この連帯に向かわせる圧力こそが「宗教・政治・家族」を生む力である。
問題はその『他人には理解されない喜び』が、コミュニティにおいて何らかのトラブルを生む場合である。
多くの嗜好品は、コミュニティにおいてトラブルを生まない限りにおいて問題はない。
ファッションで変な帽子をかぶってもおもられないが、下半身露出では捕まってしまう。
ヌーディストの集団では露出しないと白い目で見られる。
今、アメリカでは銃規制が問題とされる。
しかし、「銃規制」が進まない本質的な問題点がどこか、なかなかわからない。
銃というものは嗜好品であって、規制することは実に困難である。
そして嗜好品に人は依存するのである。
問題は、『「依存」とは何か』という問に対しての解決が見つかっていないからである。
『炭水化物(ニューヨークでのビッグサイズドリンクの販売禁止)やアルコール、ドラッグ、性的な表現、DV、虐待、セックス(セックスに対しての規制を私達は結婚という)』に対しての規制と同じである。
簡単に手に入り、依存を生むばあい、社会(コミュニティ)はどうそれに対応していくべきなのだろうか。
家族というコミュニティの崩壊と銃による犯罪の発生は対応関係にあるのではないかと思う。
つまり、「依存」にブレーキを掛けていたのは「家族というコミュニティ」なのだ。
自分を家族が守り、家族を自分が守っていた時代においては銃の使用は制限されていたであろう。
しか、家族というバインドが形式的なものとなり、自分を監視する檻となった現在では銃の使用は制限されない。
無論、宗教や学校と言ったコミュニティも同様である。
重機による犯罪の発生の範囲を考えると興味深い。
教会、学校、家庭、人の集まる所、それぞれに犯罪者にとっての「コミュニティ的な意味」がある。
犯罪者を特別な存在だとは思えない。
自分と同じ人間である。
決して異常なわけではない。
苦痛に持ちた現実に対峙して、どうにもならなくなって犯罪は起こる。
精神病や犯罪は、人間の心が映し出す当たり前の反応である。
問題は、苦痛に沈んだその人を「助けるシェルター」がそこに存在していないことである。
やっぱ、マイクロバイオームが絡んでいるのかなあ。
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