ガープの世界で母と別れるシーンのことを思い出す。世界と戦うのは子供の特権ではない。

僕は、3年27回大学に落ちたから、こういう物語には弱い。
無条件でグショグショになる。





ガープの世界という映画で、ジェニーとガープの別れを思い出す。
世界と闘い続けたジェニーにガープの言葉は届いたのだろうか。

未だに、彼女(グレン・クローズ)の映画では、これを超えるものはない。







あれはいつくらいのことだろうか?
母の引く自転車の荷台に荷物をのせて、駅までの道を歩いたことを思い出す。大学での生活が始まった跡でのことだと思う。短い帰省を終えて、東京ン戻るときのことである。丁度5月くらいのことだろうか。

とりとめもない話をして、駅に着くと十分時間があったものだ。
別れ、ホームに入いり、見返すと駅の柵越しにこちらを見ている母を見つけた。



母は若い頃、学校を諦めた事をよく僕に話した。
一生懸命、色々なことを学んで、稼いだことを話したものだ。
着物の帯を一本縫うと1万円で、月に何本も縫ったそうだ。
高度成長の時代、洋裁が下火になって、和服を買うことが、地方では贅沢だった。その期に母は和裁の師匠のもとで技術を学び、師範代となり、地元の和服店からの依頼を多く受けたのである。

母の縫った帯が、僕を世界に送り出してくれた、

東京での生活を話すと楽しそうに聞いてくれたものだ。


国体の仕事で毎年日本各地に行くが、いつも嬉しそうに聞いてくれた。
晩年、すでに母は多くのことを忘れ、食事の時などは僕が母に母のの物語を話したものだった。
夕食をともにしながら僕が話すと、「そうだったけ」と目を丸くして自分の人生を子供に聴く母は童女のような、まん丸な目をしていた。






娘は、遠くで生活を始めた、息子も間もなく(とは言っても2年あるが....)遠くに行く。
父と、妻と、池の鯉と庭の木や草花がここに残る。
雨の中、木蓮が、花をつけている。

子供達は、遠くで見た物語を聞かせてくれるだろうか。

僕と一緒に生きた日々の物語をどんな風に聞かせてくれるのだろうか。



「そうだったっけ、オラ忘れた」と父のように僕は答える。
そんな日がくるといいが......。




実に久しぶりにブログのヘッダを変えてた。
「幸運な病」ページも暫定的ではあるが出来た。

あと少しで色々とスタートする。
準備万端に近いところにある(笑)。

少し忙しくなる。




今週の土曜日は友人の馬が走るので、言ってこなければ、そういえば、前回の当たり馬券をまだ換えていない。


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