父と暮らす 10年を振り返る (1)。 会話は、人を癒やす。

妻が父に話した。
「お父さんは、なんでも食べるし、美味しい美味しいという。凄くいいね。なにが一番好きなの」
父はは答えた。
「なんでも好きだ、けど、一番好きなものはあの世逝ってしまったからなあ」

妻:「あれは食べられないでしょ」

父・「そうだな、俺のほうが食われていたからな。俺も罰当たりなこと言うなあ。」

楽しそうに言う妻の笑顔で、僕も嬉しくなった。

88歳の誕生位を家族で祝った。イチゴのケーキがこの後で出た。




丁度10年前の4月に実家の隣に家を立てた。
僕ら家族と、父と母の生活が始まった。
同居ではなかったが、まさにスープも味噌汁もさめない距離だった。



父母は嫁という立場から見たら付き合いにくいものだった。
頑固で自分の思うとおりにしたがるものだった。
僕らの生活に口出ししてくるのだった。

妻とは何度も、「離婚する他ない」と話し合った。
僕達夫婦の喧嘩の30%は父母に原因・30%は僕の病気(糖尿病)、残りは子供の教育に関してだった。
自営業だったので、収入は不安定で、生活の先は見えなくて、不安こそが喧嘩の原動力でもあった。


「お前たちが決めたことなんだから、言っても仕方がないと思うが、XXXXXXと俺は思っている」
まさに言わなくていいことを口にだすのが、父の悪い所だった。
嫌われるために、言わなくてもいいことを言う。
それは心配の裏返しなのだった。



事業に躓き、何度もお金を借りた。
父母は返す必要はないと言うが、僕は皆借用書を書いた。
毎月、仕事の調子を報告した。
父は経理マンだったので、とても嬉しそうだった。

売上げが入金されると、お金を持っていった。
喜んで、一旦受け取ってからまた返してくれたものだ。
おかしな、風習だったと今は思う。

母は喜んだ。
毎週一緒に食事をしては、ワハハと豪快に笑ってくれた。
歯が2本しか無く食べるものも限られていたが、工夫して持っていくのが楽しかった。
今の時期は、カレイをダシで煮て骨をとってあげた。

時折、骨が残っていると、「これは俺の敵」と言って、皿に除けたものだ。








しかし、父と母は、年老いていき、できないことも多くなっていく。
徐々に関係も変わる。


父に運転を諦めてもらったのは4-5年くらい前だろうか。
ただ止めろよ言ってもそれは無理な話だ。
毎日の生活に運転は深く絡んでいる。
止めてもらうまでの半年くらいは猛烈に大変だった。
このことはいつか記録しておく。

結局は、僕が、二人のための足になったのだ。
母は耳が悪くて、補聴器を使っていたのだけど、それがまた大変だった。
耳に入れる形で音量の調整が難しい。僕にもできたのだが、決してやらせてくれない。
週に1-2回は補聴器のお店にいかなければならなかった。

食事は僕が皆作り始めていたので、スーパーに買い物に行くことは僕の役目だった。
父母と、妻と子供、そして糖尿病患者の僕の料理を作る毎日だった。
自宅が事務所だったので、数年前に新潟に事務所を作った時の往復時間(2時間)を調理と父母との時間と考えることにした。

父が運転していっていたとことはみんな僕が行くようになった。
お陰で、いかに頻繁に病院に通っていたか分かった。精神安定剤の中毒であることも、その過程で分かった。
薬を求める母も、処方する先生もなすすべがなく辛かったろう。
いい先生だったから、なおさらそう思う。


母は、病院に依存していた。最終的にはその依存から脱出するのだが、妻は、僕に依存先が変わったのだという。
「おめさんがいねば、オラ生きていけね」と言う母の言葉がまだ耳に残っている。




例えば、自分が、突然周りから「車を止めろ」と言われても自分がむるだと認識しなければ辞める訳にはいかない。
怒り出すに決まっている。

認知層になると怒りっぽくなるという(僕も怒りっぽいのは認知症のためだと言われた)。
しかし考えても見てもらいたい、「感情は関係性の中で生まれる」のである。
拍手した時に音は右手か左手かどちらから鳴るのか(禅問答だね)と言うようなものである。
逆に言えば、感情が関係性を浮き彫りにしているのだ。

認知症が怒りっぽくしているのではない。

ちなみに、僕は認知症という言葉が嫌いである。




人は群れを作る生き物である。
生きる上で、「保守性=権威を守ろうとすること」は重要である。
しかし、同時に、年取って判断力を失ったリーダーをいかに排除するかということも重要なものだ。
現在の、介護の問題はこういった、「群れの中での人と人とのパワーバランス」を考えなければならない。
そこには、その個人にしか見えない欲望や利益が存在する。
群れというのは、群れ全体の実現したい価値と、構成員がそれぞれ別に持っている価値との葛藤である。

僕の仕事が、ソフトの開発であり、家でできる仕事でなければ、きっともっと違ったものになっただろう。
母は、いつも「隣でよかったねえ」と言ったものだ。





毎日の父の食事である。

おおよそ日本酒を2.5合
ご飯(麦飯)を80g
「多彩なタンパク質」と「野菜を取るための汁」「キャベツの千切り」「フレッシュな果物とヨーグルト」
決して食事の席では小言を言わない。「XXXX(焚き火、雪下ろし、機会を使った草刈り)をしないで・時間通りに来て・もう酒はやめな」とを言わないことにしている。
父は、ただでさえ、「毎日の食事を作ってもらってすまない」と思っている。
嫌だと言えない状況ではお願いしないのが最低限のルールだからね、
一緒に暮らすのは、何かとの交換条件ではないと思ってもらいたい。

「いつも父は世話してもらってすまない」と父はいうが、今まで父にしてもらったことを考えればまだまだ足りない。
家族の食事は僕が作り、皆が食べるものなんだから、何もそんなことを言うことはない。

 
 
 









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カエルとネズミに言っておく。

母が亡くなって以来、僕はおかしくなった。
父とともに夕食を取り、晩酌をするのが僕の精神を安定させている。

無くなる直前の母を苦しめた連中には怒りしか感じない。
母のことを認知症だと言って、施設に入れろと何度も提案された。
また、「どうせなにも覚えていない」と母を傷付ける事をした。
確かに、母は、数日前の記憶はなくなって、あれだけ悲しんでカエルを探していたことも、そもそも気たことも覚えていなかった。

だからお前は、何度でも、年金ATMから小遣いを引き下ろしに来たのだ。


しかし、その時の苦しみは例えようのないものだったんだ。
精神安定剤を大量に飲まなければ眠れないほどにな。

俺は一緒に居て、悲しくて涙が出てきた。



童女のような母が、カエルを探すのだ。
奥の部屋に寝ていないと探すのだ。
昨晩夕食も一緒に取らないで帰ったことも覚えていない。今日はカエルと一緒にご飯食べれると思い込んでいるのだ。
俺は、あの目を忘れない。

涙が止まらない。

いまだに僕は母に謝り続けている。
なぜ、もっとしっかり守ってやれなかったのだと。
申し訳なくて生きていたくない。



そして母が亡くなったあとで今度は父に同じことをしようとしたではないか。
警察が来ようが、何が来ようが今度は必ず父を守る。
なくなった母に誓う。

父は後10年は生きるという、いつか亡くなるだろう。
願わくば、僕より早く、安らかに亡くなってもらいたい。

父が生きている間は、警察に捕まるようなことはしない。
まあ、交通違反程度は仕方がないが.......

しかし、父に危害が及ぶと判断したら、命など惜しくはない。
覚えておけよ、お前ら。