父と暮らす 僕の誕生日

夕方いつものように父が食事に来た。
「いつもうまいもの食べさせてもらってすまないなあ」と言う。
「家族の食事を作るのは当たり前なんだからそんなこと言わなくて良いんだよ」と話す。



1960年3月1日に僕は生まれた。57歳である。その話をした。
「そうか、そうか」と父は嬉しそうだった。

「57年間見捨てないでくれてありがとう」と言った。



標準的な夕食である。家族みんなが食べるが、子供達はブタ肉のソテーなどと御飯の量が多くなり、妻はキャベツや汁の量が増える。僕も一杯やるときは、おおよそこのパターンだが、一杯やらない時は大皿がキャベツに変わり、ご飯を食べないので「鳥胸肉煮」が加わる。
毎食を見てみると、タンパク質のバラエティに気をつけるようにしているが、「旨い・満足できる」が重要である。
そして、父が元気であることが、この食事の正しさのエビデンスだ。


汁は、全員が食べるので食事の根幹になる。盛る時に具を偏在させることで調整する。僕は芋系を除くし2回はお代わりをする。

牛肉、キノコ、野菜が多く入る。葉の部分は火を止めてから入れる(今回は白菜の葉の部分、なばな、ほうれん草)。基本的に「汁」が担当するのは野菜のパートとメインのタンパク質である。

今日は醤油仕立てだったが、コンソメ&キャベツ系だったり、ひき肉とナスを炒めてマーボ系だったり、豚骨風にして麺を入れたりと様々なバリエーションを持つ。

余ったものは翌日に持ち越して、朝食におじやにしたり、夕食に仕立て直したりもするが10%の確率でしか余らない。


煮しめ、ヨーグルト(りんごを1/6)、キャベツ、ご飯はおおよそ80g最初の頃はご飯が少ないと行っていたが、今ではこれでも多い位だという。母と食事をしていたときには、この4倍位は食べていたと思う。母は、食事の最初から山盛りのご飯を盛っておいて、飲酒を牽制していた(笑)。


大皿は僕と父の席にしか無い。、多彩なタンパク質と箸休めを盛り付ける。サシミ3種類、豚肉のソテー(焼き魚の時は少しだけ骨から外して乗せる)、カニカマ、北寄貝サラダ、昼の残りの野菜炒め。この皿の代わりに子供達は焼肉や焼き魚などを食べる。

手前の小皿な、食べ切れないものや、ツマミ系を入れてお持ち帰りである。おおよそ4時間後くらいに一回起き、日本酒0.7合くらいを飲みながらこの小皿を食べている。最初は止めようかと思ったが、今では、父の好きにさせてやりたいと思う。

 


誕生日の煮しめである。午前中に根菜類を買ってきて、2時間かけて作った。
結構旨い。煮しめは難しい。最後の瞬間は鍋についていないといけない。しかし、この数年で随分上手くなった。
身欠きにしん、鶏胸肉、結び昆布(自分で結ぶ)、レンコン、人参、大根、こんにゃく




今まで色々と辛かったことは有っただろうと父に聞いた。
辛かったことは有ったかもしれないがみんな忘れたという。
唯一、母が先に逝ったことは辛いという。

それでも、父が先に亡くなったら母はつらかったと思うと話すと、それはそうだなという。
二人同時に亡くなることができれば別だよねと話した。

父は、「それは違う、残された人の悲しみは例えようがない」と言う。

私たちは、共に生きているのだ。
父にとって妻を亡くした気持ちは癒えることはない。
確かにコタツに横になって眠り、周りが気がついたら亡くなっていたというのは本人にとっては苦しくなく、いい死に方かもしれない。
しかし、周りの人にとってはショックなものだ。

僕がまだ母の死に苦しんでいるのは、最初に見つけたからだと妻に言われた。
そうかもしれない。父は揺さぶって何度も起こそうとしていた。
僕はその姿を見た瞬間にわかった。

母がなくなってからの2-3ヶ月位(四十九日の後しばらく)は毎日食卓に写真をおいて、「人は簡単に死ぬもんだな」と言っていた。
あの頃、僕も父も完全におかしくなっていた。
父は酒の量も増え。1ヶ月後(2月6日)には救急車で運ばれることになった。
僕も、かなりひどかった。
そして、事業に可能性が見えてきて、もう一回生きようと想ったのだ。「家族の食事」をなんとかしようと思ったのだ。

母が父をよろしく頼むと僕に残してくれたものだと思う。


最近父は、毎日「今日もいい日だった」と言う。
寝て散歩するだけなのに、いつもそういう。決して文句を言わないで、毎日を楽しく生きている。そんな姿は僕達の心を和ませる。

妻も、「今日のじっちゃんの面白かったこと」を話してくれる。
実家で洗濯をした時、一緒に干すことがあるのだが、ふんどしをこっそりと目立たないようにタオルに隠して干すという。
「じっちゃん、恥ずかしいのか?」と聞くと照れるのがカワイイという。

僕はあんな幸せな年寄りになれるだろうか?









今日は、父の務めていた鉄工所の跡地の公園まで行って、コンビニで缶コーヒーを買って休んで帰ってきたという。
東西南北に散歩コースがあり、父にしかわからない風景と休み場所がある。

朝方にお茶をポットに入れて持っていったときや、昼にふと寄ると仏壇に話しかけている声がすることがある。
散歩しながらも、母に話しかけているのだろう。




いつから「介護」などという言葉ができ、そのかわりに何を得たのかわからないが、自分の番が来たとききっと知るのだろう。

僕や妻は、まだ小さい頃のことを覚えているから、「本家−分家」の関係を知っているが、子供達はもう知らない。
家庭とか一族と呼ばれているヒトの関係(群れの力学)は研究が難しい。
しかし、現在の多くの問題を解決するためには向き合わなければならないことであろう。






僕は、親不孝だった(過去形か?)。

色々と心配をかけて、職も点々として、結婚も遅く、事業にも失敗しては助けてもらった。波乱万丈であった。

特に18年前に、父と同じ会社で働いて、敵と味方に別れた労働争議は貴重な体験だった。

よい妻に恵まれた。

母も父も、抑圧的で利口なものだ(他人が馬鹿に見える)から、思ったことをズケズケと言った。
多くのトラブルを産んだが、もう昔のことだ。

僕は、「激しやすく情にもろい単純な母」と「温和でしぶとい複雑な父」の子供だ。


そしてここ数年は「僕の糖尿病の合併症が進み」、「母を失った」が「父と家族」になれた。
家族というのは戸籍で出来るのではなく、ともに生きる時に生まれる感情である。
コミュニティの共通の価値である。
毎日、食事を共にして、母の死を共に悼んで過ごしているうちに、「父と家族」であったことを思い出してきたのである。



仕事もうまく行っているし、子供もキチンと自立してきている。
何とか、もう少し頑張れそうだ。


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わかるか、カエルとネズミ。
お前たちは、俺の大事なものを奪おうとしたんだぞ。

絶対に許しはしない。
これから、事業が大きくなるが、俺にとっては父と母のほうが大事だ。
駄目だ、腹が立ってきた。