「砂漠でサーモン・フィッシング」 ドストライクであった。

クリスティン・スコット・トーマスって僕大好きなんだ。
最初見たのは「モンタナの風に抱かれて」だったろうか。
なんとも美しい映画であった。
ほぼ同じ年代である、
傷つくことからの回復についての映画であった(注1)。今度ゆっくり見直したい。



「砂漠でサーモンフィッシング」はちょっとみたいなと思っていたのだけど、タイミングが合わなかった。
仕事がちょうど一段落なところだったので借りてきた。


いやあ、びっくりした。
僕の大好きな映画であった。


ユアン・マクレガーって、「スターウオーズのオビワン」で有名だけど、僕にとっては「ブラス!」なんだよなあ(注2)。
おまけに エミリー・ブラントである。「オール・ユー・ニード・イズ・キル」大好きなのだ。


考えてみると皆、恋愛映画で、現実に向き合って変わっていく人々の映画なのである。

この2つが揃うと泣ける。



族長が、テロリストに対しての言葉が僕は好きだ。
そしてラストの結論。
なんとも素敵な映画ではないか。





エミリー・ブラントクリスティン・スコット・トーマスも雰囲気がよく似ている。
ツンデレで、芯が強くて、プロッフェッショナルである。
僕にとっては、こちらもドストライク(注3)である。



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注1 : 傷つくことからの回復についての映画
娘(スカーレット・ヨハンソン)が、乗馬中の事故で片足の切断、馬は暴れ馬になってしまう。
それまで、家庭に対して単なる「経済の単位・消費の場」としての意味しか見出していなかった母(クリスティン・スコット・トーマス)がモンタナで変わっていく映画である。
モンタナで馬の心を癒やす仕事をしているカーボーイの家族と接して家族の意味を見つけるのである。

最初見た時は考えていなかった(当たり前である、薬飲んで、炭水化物イケイケドンドンの頃だったからなあ)。
障がい者」になった娘と共に生きる家族の物語なのである。

僕は糖尿病を膵臓という臓器が傷ついた障がい者と考えている。
しかし、インスリンを打てば「外見的には」義足も松葉杖もいらない障碍者なのである。


娘が、事故のことを語るシークエンスはナラティブの典型である。
ナラティブとは単純に事故のことを患者に話させるのではない、懺悔(ざんげ)と言う言葉がよりふさわしい。


医師にはそんな言葉を受けることはできない。
たとえ聖職者であろうとも、同じ宗教を信じていなければ懺悔は存在しない。
つまり、懺悔とは同じ価値を信じて共に生きていくという意志の表明なのだ。

極めて、宗教的な体験であろう。そして、そのプロセスは患者自身が変わることで次に進む。
もう取り返しのつかないことなのだから、終わるのはもっと先になる。
そして年を取っていくというプロセスはまさにコレにあたる。

介護施設は、家族がそうであるような意味での「同じ価値を信じて生きていくコミュニティ」ではない。

しかし、今や、家族という人のつながりは既に崩壊している。






注2 : 「ブラス!」なんだよなあ
1980年代の炭鉱閉山とコミュニティの破壊を描いている。
そしてそんな闘いの中に芽生える愛、新しい絆。
涙なくしては見れない映画である。

Land of Hope and Gloryだめだ、泣けてしまう。

「なぜ生命は死ぬのか」と繰り返し本や映画の主題となる。
私達に見える「死」は単にコロニーの崩壊でしか無い。
新たなる環境に適応する(進化)ために起こることなのだ。
決して、無に消えることはない。
DNAはこの教訓を生かし、新しい環境に適応したコロニーを作るのである。







注3 : ドストライク
細胞から歓喜が上がり、決して意志では抗えない状況
「ごめん、妻よ、子供よ、僕を許して......」という状況になるのである。
まあ、現実には向こうもドストライクでなければそういう状況にはならないのだが.......。

炭水化物と同じで、食べてみれば大して美味ではない。

早く、諦観という言葉が分かるほどに年を取りたいものだ。

大岡越前の母は、諦観がいつ訪れるのかと大岡越前に聞かれて、火鉢の灰を黙ってかき回していたという(要出典)。