体罰ってなんだろうか?(2)僕は体罰が問題ではないと考える。

体罰に関してのブログを書いた。

体罰(暴力)をどう考えているかを書かねばならないと感じたので書くことにした。


僕は体罰だろうが、殺人だろうが、レイプだろうが(起こっている現実を)直視(そこには理由があるという意味で「容認」)する。

教育的な指導の熱意がありすぎて思わず手が出たとか言った所でそれは言い訳にしか過ぎない。
関係性の中で暴力は発生する。これは現実であり、目を背けるべきことではない。


ヒトは「暴力に対しての閾値」を持つ。その閾値を超えたストレスを与えられた時に「暴力」を振るう。
また、体罰を振るわれた方にも(イジメという事件の被害者の側にも)問題は有るはずなのである。

例えば、無視され続けた子どもが、無視していた子どもを殴った様なとき、被害者は誰なんだろうか?
我慢の限界に来て暴力をふるう時、ほんとうに悪いのは誰なんだろうか。唐獅子牡丹に聞いてみたいものだ。



問題は「コミュニテイを継続しようとした時」にどう関係を修復するかである。
暴力に直面した時にコミュニテイの当事者は深く傷ついている。

例えば、理由なき暴力を家族が受けた時(例えば妻子どもを殺された時)、夫はどうなるのだろうか?
自分で考えたら、気が狂ってしまうかもしれない。テロリストになるかもしれない。



しかし、コミュニテイは続く。そして彼の苦しみは解消されるべきだと思う。修復的司法というパラダイムシフトが私達には求められている。



大事なことは、「体罰や殺人やレイプ、イジメはいけない」と現実にフタをすることではなく、関係性をいかに修復するかである。

教師の無誤謬を守らねばならない「文科省」は教師の生徒に対する「体罰や殺人やレイプ、イジメという事件」を「特別な事例として罰すること」や「隠ぺいすること」を第一に考えるが、それは大きな間違えである。
生徒を妊娠させた教師を懲戒免職にしても、体罰を振るった教師を処分して、別な学校に赴任させても何ら問題は解決しない。

『行為を認め、悔恨して、謝罪して、繰り返さないこと』こそが重要である。
生徒と教師の両側にとってである。

「どちらが加害者でどちらが被害者かなのか』などということを誰も学校には期待していない。
それは{必用ならば}裁判のプロセスで明らかにすべきことである。

学校には捜査権限がないし、当事者が関係者であることが多いことを考えたら「白黒つけることなど出来ない」のは当たり前である。

体罰を超えて、教師と生徒の関係がより強い絆で結ばれたという事を聞いたことがある。その時、僕は、涙が出てきた。生徒も教師も変われたのだ。

僕はその「自己変革」に希望を持つ。

時に人は過ちを犯す。そして変わることでその過ちを取り返すのだ。

そんな強さを持ちたいと思う。


愛知県の子どもに体罰を振るった教師は、子供達と和解できるのだろうか?
子供達はその教師の中に自分が理想としたい人間像を見出すことが出来るのだろうか?

私達は自分を変えることが出来るのだろうか?


子供達と一緒に未来を作っていけるだろうか?






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