体罰ってなんだろうか?(1)体罰は教師の行う「イジメ」である。個人とコミュニティの閾値との関係が重要だ。

体罰は教師の行う「イジメ」である。
体罰は『コミュニティにおける「価値」に対しての「裏切り者への制裁」』である。
まさに「イジメ ストライク」である。

前置き【ディベートの為の共通理解】

ヒトは多重的、多層的にコミュニティに属する。


子どもの場合「家庭」と言うコミュニティが一番核に有る、その上に「クラス」というように多層的なコミュニティを持つ。

家庭というコミュニテイが一番核になっているという点では「大人」も同様である。
大人は「自分がかつて属していた家庭」と「自分が(親として)価値を作っている家庭」の2つの家庭に属している。

親が子供を扱うかと言う習慣は、子どもの人生において重要な要素となる。扱われたように扱うのである。「暴力の連鎖」「親を見れば子がわかる」等の言葉を思い出す。

時に子どもは大人が作っている「価値」を変えようとするがその時期を「反抗期と呼ばれる」。



当然、「お隣さんや近所」「父親の勤務先」「市」「県」「国」などの上位階層を持つ。

多層的なコミュニティ間の関係はその現実において、様々な姿を表す。
一旦不安定になった時に、法律や、仲介者が相互の「価値」の対立を解消するために働き、コミュニティは安定に向かう。


同時に「幼なじみ」「友人関係」「クラブ」「お掃除当番の班」などの多重的なコミュニティを持つ。
これらのコミュニティにおいては「共同の価値の実現」が不安定になった場合、「調停役」が現れたり、「価値の再構成」が
起こり、新たな「関係が」が現れる。(このプロセスは今研究中......)





すべてのコミュニティは個人の内面にある(国籍、住民票などのように法的に保証されているものも有る)。

つまり、コミュニテイの定義は「共通の利益を持つヒトの集団」であるが、構成する個人がそう信じることが成立の必要条件である。(大事なことは実際にどうであるかは問題ではない)



コミュニティは、「提供と分配」のルールを持つ。
そのベースになるルールは「実質的な平等」である(と僕は考えている)。


ヒトはコミュニティに属する時「個人の価値」の一部を「コミュニティの価値」に投資する。その投資は個人だけでは実現できない「価値」の分配のために行われる。誰かと共通の価値を共有している」と考えることでも出来る。

コミュニテイは「共通の価値(構成員全体で実現する)を持ち」「裏切り者に対しての制裁手段を持つ」のである。


ここで言う「コミュニティ論」とは様々な社会現象(人の行動)を説明して、予測するための仮説である。
「イジメ、自殺」などの問題を予測、予防するために考えている。



詳細はこちら(「信頼と裏切りの社会」 2013/12/24 ブルース・シュナイアーの紹介)で見て頂戴。

下記ラグビー部での例で言えばで「ラグビーの試合に勝つ」と言う価値は個人に厳しい練習を課す。
その時に「練習をサボる個人」はコミュニティに対しての「裏切り者」である。
問題は、そのコミュニティの「制裁は誰が決めているのか」である。


この場合はどう見ても「教師」である。
問題は、その教師が、なぜ「暴力」を振るうのかということである。
コミュニテイの価値の確立と制裁のルールはどこで習慣化されるのか。
それは、一番コアの「育ってきた家庭」のルールだったのではないか?


問題は教師の「試合に勝つ事」と言う価値にたいして「スポーツを楽しみたい」と言う価値を持っている生徒をどう扱うかなのだ。

「試合に勝つ」と言う価値を変えることが出来ない教師に問題はないのだろうか?
生徒に、「試合に勝つ」という価値を納得させられない指導方法にこそ問題が有るのではないのだろうか?

単に懲罰的体罰をしたからといって非難しても意味は無い。
もし、その教師が「ダッシュ50本(それが、一般的な練習に対して逸脱する場合)」などという指示を出したら、それは体罰ではないだろうが「イジメ」ではないか?


体罰を子どもに対してのイジメだと考えてはいけないのだろうか?僕には、教師が子どもをいじめているとしか思えない。

そしてそんな教師を見て、子供達はイジメを行う。
教師、親、子ども、全員が「イジメ」の重要なプレイヤーである。



僕は子どものPTA三役会で異なった意見を言ったら、いびり出された。校長の持っている価値と相容れなかったのである。校長は自分の行為がイジメだと考えることもない。
その時、校長は「PTA副会長」に僕をイジメさせた。まさに他の部員に殴らせたのと一緒である。怒る気にもならない。ただ憂鬱になるだけである。

僕は、学校のPTAと言うコミュニテイに属することをやめた。

僕は若い頃から、何度も(16回)転職した。

いつも大体こんなもんだった。
社長の方針に反対したり、課長のやり方に納得行かなかったり、そのコミュニティ(会社)が変わる力を持っていないことを実感した時だ。
自分の人生をそこで費やすことを無駄だと考えたのである。奴らは、うるさい奴が辞めたと思っただろうなあ(笑)



今は自分が社長となって、社員と頑張っている。
市民として、自分の意見を表現するのは社会に対しての責任だと思い「百年しばた」と言う運動を行っている。

果たして僕が夢見るようなコミュニテイは出実現できるだろうか?


まだ、諦めたくない。



政治は変えられないし、どんなに運動しても原発は再稼働する。
世界の富は僅かな人間が独占している。

会社に務めれば、結論の決っている会議ばかりだ。
家族は共通の価値を持たず、離婚率は上がり、DVは蔓延する。
そんな家庭で育った子供が教師になって、自分の習慣に基づいてクラスと言うコミュニテイの価値の運営をする。
親はやがて年老いて、抑圧し続けたかつての子どもに復讐される。




コミュニテイが変わりうるものであり、個人が自分の意見が反映されるコミュニティに属していると実感した時にヒトは自分の中にエンジンを持つ。

どんなに選挙に行っても社会が変わらないと感じた時、政治的無力感に襲われる。まさに今の日本ではないか。


問題は奥深い。


コミュニティの共有する価値は、誰かが決定している。日本的な決定プロセスはそれなりに議論するべき点も多い。
それはまた今度論じたい。

体罰についての僕の考えを書きました。

体罰で教員3953人を処分 13年度、過去最多を更新
高浜行人2015年1月30日18時38分


体罰で処分された教員の人数

 子どもに体罰をしたとして2013年度中に処分された公立小中高校の教員は3953人にのぼり、過去最高だった前年度を1700人上回った。文部科学省が30日に発表した。体罰の多くが、12年末に大阪市立桜宮高校で暴力を受けた男子生徒が自殺した後の緊急調査で発覚したという。

 緊急調査では、12年度中に体罰をした公立校の教員は5415人。一方、12年度中に処分されたのは2253人にとどまり、残りの多くが13年度に懲戒免職や減給、訓告などの処分を受けた。これらの処分の対象がいつの体罰なのかは調べられていないが、文科省の担当者は13年度中に新たに発覚した体罰は減ったとみている。

 体罰を受けた児童生徒は8880人にのぼった。体罰のあった状況は、小学校は授業中(61・4%)、中学校と高校は部活動(それぞれ38・5%、43・4%)が最も多かった。内容は「素手で殴る」が小中高とも6割前後。中学校の「蹴る」(11・5%)、高校の「殴る及び蹴る」(9・1%)も目立った。

顧問が命令、部員が同級生を平手打ち 「やる気ない」
2014年10月15日12時12分

 愛知県内の県立高校のラグビー部顧問の男性教諭が2月、部員2人に命令して、同級生部員1人の顔を平手打ちさせていたことが分かった。教諭は体罰だと認め、文書訓告処分を受けた。

 県教委によると、教諭は練習後、大会への目標をそれぞれ部員たちに聞いた際、受け答えから「やる気がなかった」と感じた部員1人の顔を、同級生2人に命じて一回ずつ平手打ちさせたという。たたかれた部員にけがはなかった。

 3月、県教委に匿名のメールで情報が寄せられ、発覚した。調査に対し、教諭は「(平手打ちをされたことによって)同級生に迷惑をかけたと思わせ、成長させたかった」と説明しているという。

 問題発覚後の4月、教諭は部の保護者や生徒らに「思いが至らなかった」と謝罪したという。県教委は6月、教諭を処分したが、「県の基準で文書訓告は公表しない」として発表していなかった。


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