コミュニティ論から「自己責任論の背景」を考える(1)

自己責任論とは、「自業自得」という考え方である。
また、「長いものには巻かれろ」という処世術でもあるような気がする。


昔から、雪山だったり、危険な地域だったり、様々な所に行った「個人」が事故に有ったり遭難したりした時に世論(マスコミ、ネット)に現れる。

日本特有のものだと、論者は言う。





僕も、手放しで、自己責任論が好ましいことだとは思ってはいない。
遺族の方々にとってみたら、例えようのない悲劇である。



しかし、「自己責任論」ってのある意味、私達の持っているコミュニティの象徴的な表出のようなきがする。


クマンバチの様に一匹殺されたら、最後の一匹までその報復を行うあり方。
働き蟻の様に、一匹踏み潰されても、報復など考えないで黙々と働き続けるあり方。


私達のコミュニティは、その2つの要素が混在してるような気がしてならない。




見殺しにした時に、そうでも考えねば私達は心が安らがないのである。


また雪山で遭難した人を助けねば、観光資源として雪山が成り立たないと言う面もあるような気がする。

1999年に奥沢でキャンプしてた人たちが、増水した川に流されて次々と死んでいった事件を見るのは辛かったなあ。
テレビで放送していたからねえ。
あれの時も、前日に忠告した地元の人に暴言を吐いたとか色々と後から出てきて、見殺しにした心のバランスを取ろうとしていたようなきがする。(彼らが自己責任のもとでキャンプしたと印象つけようとしたいたようなきがする)

ちなみに、僕も何度か、同じ所でキャンプしたことが有る。
とても良い所で、素晴らしかった。時に鹿を見たことも有る。



自己責任(死ぬリスクをも知った上で)で行ったのだからそこで殺されても、私達は「報復」しません。

あなた方にはあなた方のルールが有り、そのルールは私達と違う。

彼(後藤さん)は、人がみな同じように悲しみや喜びを感じて生きていることを皆に知らせたいと思っていた。
そんな彼が殺されたことは残念だが、彼の死を理由にあなた方を殺そうとは思っわない。
いつか、彼の持っている価値が世界の人に共有されればいいと思う。


安倍の言うような「私達は報復する」という考え方にこそ違和感を感じる。





もうすでに私達は「日揮の事件」を忘れている。
報復より、商売と言う考え方がそこにはあるのではないか?




どちらにしても、互いに相容れない2つのコミュニティは、いずれ、容認しあう点を持つようになるほかない。
イスラム教とキリスト教の対立のように見せられているが、その根底にはも少しひねらないと見えてこない別のものが有ると思う。
貧乏人同士に喧嘩させて嬉しいのは世界の富を独占する連中である。






戦場ジャーナリズムの重要性はよく理解している。
「戦争したいと思っている国家」にとって、ジャーナリズムは敵だ。
国はジャーナリストが殺されたことを本質的な意味で理解していないようなきがする。




また、上手く論理構成は出来ないが、「 子どもが犯罪を犯した時「世間様に申し訳ないと親が自殺する」様な事例]』も同根のようなきがする。




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