「保健室登校で育つ子どもたち」一読

2005年、農文協の本である。

かなり泣けた。

困難な状況に陥っている子どもが、変わろうとする姿には涙が出てくる。
同時に、その子のコミュニティの困難の表出でも有る。

養護教諭、教師達が子どもの困難を自分の問題として受け止めることで互いに成長して行く姿は感動的である。

登校困難に至る子どもは、属するコミュニティで自分の価値を見いだせなくなっている。
そのコミュニティは、家庭であり、クラスである。

子供達が、保健室という家庭でもクラスでもないコミュニティで自分自身の価値を見出していく過程は感動的である。
同時に、周りの人々の「自己変革」の過程であり、その姿は感動的だ。



いま、しばたの子供達はどのくらい保健室で救われているのだろうか。
知りたくなった。



現在僕は、「コミュニティ」と一般的に呼ばれている概念を変えたいと思っている。

コミュニティは、共通の利益を実現するために有る。
誰が、その共通の利益を生めるのであろうか?

全ての構成者は共通の利益に対しての異なった価値を持つ。
私達はどのようにして、異なった価値をコミュニティ全体の価値の中に取り込んでいくのだろうか?

また、共通の利益は、構成員全体の「平等」の為でなければコミュニティは支配と非支配のための装置となる。
同時に、もっと大きなコミュニティの正義(社会正義)を実現するものでなければ被抑圧者を再生産する意味しか持たない。


コミュニティは、裏切り者を処罰する装置でもある。

イジメとは、コミュニティにおける処罰の関係性である。

親は家庭の持っている価値を決める。
子が長じて、教師となり、クラスを担任する時に、クラスの親として振る舞う。
クラスの共通の価値は教師が決めるのである。

果たして、私達は家庭で適切に子どもの持っている価値を家庭全体の価値に統合できているのだろうか?
クラス担任は子供達に適切に接しているだろうか?
一人ひとりの価値を見つけ出し、その価値をコミュニティで生かすことができているだろうか?


教師の姿を見て、子どもは子供同士のコミュニティで、そのリーダーの習慣をまねる。

教師と親は、子どもがコミュニティをどのように作るかの手本である。

事件が起こった時、教師と親は互いに非難しあうが、互いに問題が有ること気がつななければならない。


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