ソーシャルスキル批判(1)小手先の技術では価値の衝突を解消出来ない

社会力、ソーシャルスキルライフスキルと呼ばれる物がある。

これらの言葉が指し示す物は、教育の現場のみならず人間関係一般において必要な力だと言われる

定義は大まかに言ってこうである
1)相手がどのような人かを理解して
2)自分の思いを、相手が理解できるような言葉や態度にして
3)適切に相手に伝える
「教師のためのソーシャルスキル 河村茂雄著」 P3

確かに、大変大事なことで、何も問題はない。
丁寧な言葉でコミュニケーションを行うことで理解し合うことが出来るというのはそのとおりである。


しかしながら、小手先のコミュニケーションの技術ではどうにもならないことが有る。
それはコミュニティ(注1)において価値の衝突をどう解消するかである。



例えば、クラスの子どもを裏切ることで快感を得られる場合、快感がいじめっ子の価値である。
いじめっ子がいくら丁寧な言葉でお願いしても、いじめは無くならない。
ネグレクト(無視)の関係が出来上がっている場合解決は更に困難になる。



相手にわかってもらえれば、問題は全て解決するなどという結論は、幸わせな学者の先生や公務員の方々(注2)が、考えそうなことである(笑)。
逆に言えば、このような小手先の技術は「相手にわかってもらってもどうしようもない状況」を解決するには役に立たない。


私達は、毎日、価値の衝突の中で生きている。
夫婦でどちらがゴミ出しをするか、お掃除の時誰が雑巾がけをするか、給食の盛りをいかに多くしてもらうか、望みの学校に入るためにクラスメートを蹴落とすか、いくらでも例は出てくるだろ?





社会力、ソーシャルスキルライフスキルなどというものは「教師が、波風立たないようにクラス運営するための小手先の技術」にしか感じられない。





大事なことは、私達は共に未来を作り上げる為のコミュニティにいるのだと感じることである。
人はみな異なった価値を持つ、そして、全ての価値が実現することはない。
「教師も、親も、子どもも、地域の人達も、」一緒に一つの船に乗っているのだと信じることである。
困難な道程である。何故ならば、それに必要なのは「自己変革 注3」なのだから。





例えば、水道からいくらでも水が出る環境では水の価値は0に近い。
砂漠で水筒わずかした水が無い場合、その水には大変な価値がある。

人は時に貴重なリソースをいかに配分するかという問題に直面する。

そんな時に、どんなに丁寧な言葉で自分が水をほしいと言っても何も意味が無い。

水を持っている人は(自分が死ぬ危険性が有る場合)決して水を与えてくれないだろう。


刑法の緊急避難を論じる場合「カルネアデスの板」という例がある。
海難事故で二人が同時につかまれば沈んでしまう板につかまり、もう一人を殺した場合を考えている。
問題は板を挟んで「この二人が相手に分かってもらえるように話をするか?」ということである。

自分がいかに家族に必要とされているかを話す姿は何ともコントの一場面にありそうである。


また、沈没船から救命ボートに「女性、子供」から乗せる、というのも詳細に考察すると面白い。
自己犠牲というのも価値の一種であることを理解できないと「崇高な行為」とか思ってしまう。
「ヒトは善き事しか行わない」と言う命題の「善き事」とは「自分にとって価値の有ること」と言う意味である。

深く人間性というものとコミュニティの力学を考察しなければならない。



人はみな、生きる過程において、何らかの価値を実現しようとする。




家庭における反抗期、教室の教師の指導、子供同士のイジメ、企業における会議、企業同士の値段交渉、いずれも価値の衝突と見直すことが出来る。



「砂漠で水を奪い合うこと」と「学校でのイジメ」がどんな関係があるのだと思われるだろう。
僕にはその両者は、「ヒトとコミュニティの本質的な問題」と映る。

安吾が堕落論で論じた問題である。

少し考えていきたい。

注1
「コミュニティ、社会」とは、強い共通の価値をもち連続性、相互関連性を持つ人の集まりを言う。最近は、1人から存在すると考えている。自分自身の意識の中で誰かがいるから何かするのである。
トムとジェーリーで「悪魔のトム」と「天使のトム」が戦う。
ネル(僕はジョディ・フォスターが大好き)という映画では1人であるということが「大きな意味」を持っている。
余談だが、リーアム・ニーソンさんが出ていることに気がついてびっくり。


「信頼と裏切りの社会」ではヒトの行動は『コミュニティの持っている圧力』と、『自分の持っている「価値」』の間の相克の関数であると論じられている、実に素晴らしい洞察である。


信頼と裏切りの社会」 2013/12/24 ブルース・シュナイアー (著), 山形 浩生 (翻訳)と言う本は最近であった中での一番の衝撃本である。
著者はインターネットセキュリティの専門家であるのだが、この本の中には一切コンピュータの技術ことは出てこない。
私達の社会の仕組みについて書かれている。
すさまじい洞察力で、様々なコミュニティの形を論じている。

誰でもネット通販で失敗した経験はあるだろう。なぜ、失敗するのか?
著者は技術の問題ではないというところからスタートして奥深い人間洞察の視点に導いてくれる。

価値を分け合うのが社会(コミュニティ)であって、分配のルールは参加者の中に存在すると論じている。
分配のルールは、集団への参加のルールである。
そして、同時に分配のルールは、「裏切り者への制裁のルール」でもある。

                                                          • -


『「グループ」とコミュニティの関係』、グループとは電車に乗り合わせた人の集団、同じお店で食事をしている人の集団、などのように共通の価値が弱い人の結びつきを言う。パニック映画などで「事故で電車が崖から落ちそうになると言うアクシデント」のもとで、人々はコミュニテイとなる。
多くのパニック映画の中で思考実験されている主題である。全員が死ぬ可能性の中で個人がいかに生き残るかという所にドラマが生まれる。
僕はポセイドン・アドベンチャージーン・ハックマン大好き。
いつもあの映画見る度に泣いてしまう。

神様っているのかなあ?

余談であるが、僕は「ドフとエスキーの神の不在証明」が大好きである。
時折、拾ってくれる神様はいるような気がする....................

注2
「幸わせな学者の先生や公務員の方々」馬鹿にしているわけではない。皮肉である。

僕は16回転職した。様々な困難と直面してきた。ニートだった時代も有る。
中学校の頃は深刻なイジメにあい登校できなくなった。
親会社に踏みつけられた田舎の小さな労働組合の委員長だったことも有る。
2013年は信頼していた会社に裏切られて毎日自殺を考えていた。

人生は苛酷である。


どんなに子どもが自殺しても、先生や公務員たちは『「無誤謬」と言う壁の中』でかばい合う。

首にならないし給料ももらい続ける。

無論、心ある先生もいる事を知っている。いつも僕が議論する先生たちは毎日苦悩しながら頑張っている。
しかし、問題は、そういう先生方があまりに少ないということである。


注3
カート・ボネガットさんは「自己変革は可能か」と言うインタビューの中で以下のように言っている。

「社会を変える」ということは、「自己変革」に他ならないと。

そしてそれは、困難である。


538893