阿賀野高校生徒の自殺を考える。(9)労働組合の時代の「イジメ」

おおよそ16年前、僕は新潟金属という鉄工所の組合の委員長になって、親会社(大平洋金属)と交渉した。【注0】

結局、0円だった退職金が割増されて1億3千万円となり労働争議は終わった。



この出来事は、僕に様々な教訓を与えてくれた。
いつかまとめないといけないと思いながら、もう15−16年経ってしまった。

今考えると、僕がイジメの問題を今のように捉えるルーツになっている。


僕は今、イジメを「共通の価値」を持ったコミュニティと「その中にいる異端をどう処理するか」であると捉えている。


僕は組合の委員長として戦い、成果を得た後に「異端者」としてイジメられた。このイジメの部分は長く誰にも話せなかったが、社会の中に当たり前にあるコミュニティのパワーゲームとしてのいい例だと気がついた。


そして、ここから書くのは、エピローグの序章である。
最終的には労働争議後に、僕や組合員、社長や経営陣がどんな人生を送ったか、企業は地域コミュニティにそんな役割を持っていたのか、というようなことを書きたいが道は遠い。

当然僕の目から見た正義の物語なので、真実(有るとしたらだが)ではない。
異論のある方もまだ生き残っている(多くの人は死んでしまった)と思うのでご自由にブログなりコメントなりを書くといい。
議論にならないコメントには返事を書かないので覚えておくがいい。





どんな交渉にも「タイムリミット、締め切り」がある。

労働組合は「スト権の確立と、ストライキから生じる社会的な損害(経営側に課される)」を武器に経営者からの譲歩を引き出す。
イムリミットは刻々と近づいてきてストをするか、和解案が出来るかが問題となる。

私達の場合は運良く、タイムリミットに間に合い、会社側との和解案が作られた。

和解の契約には「社員一人一人に受け取る金額」を決めなければならなかった。【注1】






和解案が出来た時には皆不満を持っていた。
和解後の組合活動は、全く違ったものになっていた。そこまでの一体感がまるで消えてしまった。争議の時は僕のことを恩人のように接していた組合員がよそよそしくなっていった。





これは当然のことなのである。

組合員がちゃんと手を抜かないで倒産(解散)の瞬間まで働くように、経営者は手練手管を使う。組合員は倒産(解散)後もなんとか雇用してもらおうと必死である。

組合の役員に誰が残れるか、雇用条件はどうなるべきか、組合で決めたいと話したが、誰も賛成しなかった。



倒産後の身の振り方を皆必死に考え、もはや組合は機能しなかった。


管理職の攻勢、社員への懐柔策は続いていた。そんなことが起こるとは全く気が付かなかった。
社員は、会社が解散するとわかっていて社員は上司の言うことなど聞かないのである。【注2】
部長の連中は、社員の中の親方連中(組合員)に「この会社を買い取ろうというオファーが来ている」と話をする。

それぞれの社員は生活があるから、次の雇用に自分の人生をかける。


最終日まで時間が有ったが、僕は有給をとって会社に行かないことにした。
最終日の朝、僕は会社窓をバットで叩き割る夢を見て目覚めた。
相当心が病んででいた。

あの時の、一体感は忘れられないとともに、その後のバラバラ感は強烈に僕の心を傷つけた。










当時、僕は社宅に入っていた。【注3】
毎年恒例のバーベキューが有った。
その年のバーベキュに声をかけられなかったのである。

なんか、夕方外が賑やかなので何かなあと思ってみたら、10人ほどの社員がみんなで楽しそうにバーベキューしているのである。



その風景を見たら一瞬で凍りついてしまった。皆は僕のことを「イジメ(仲間はずれ)」たのである。


もう会社にも行きたくなくなってしまった。
交渉してた時は「神様」の様に皆に言われながら、金額割を決めて和解した所で、「齋藤は何もわかっていない上に身勝手に金額を決めたと陰口を言う」僕には声も掛けなくなったのだ。


おまけに、経営陣に近い組合員はまことしやかに「親会社は最初から退職金を割りますつもりだった」という噂を流すのである。これは全くの嘘である。

交渉の過程で、当初「8千万円の割増要求」を新潟金属の社長の側から経営陣(非組合員)のぶんも要求額に入れて欲しいと言われ入れたのである。彼をこちら側につけるためである。
組合が頑張って、金額を得たことを打ち消そうとするような噂であった。





今考えれば、彼らの行動も十分理解できる。




バーベキュウに参加していた社員は、当時のM部長の「会社買い取り」のオファーがあるという話を真に受けて、組合(僕)のいうことを聞いていたら買い取られた会社に残れないぞと言う『価値』を信じたのである。
当然そんな事はないと言う僕は彼らにとっては異端者であり、「いじめる対象」であった。
僕を誘わないでバーベキュウをするというのは彼らの団結を強めると同時にM部長への媚であった。


会社の買い取り話はなかったということが分かる。
ご丁寧に、その会社が視察に来たのは最終日近くである。
職のあてのない組合員を最後まで働かせるためであった。
もしそんな可能性があったならばもっと早くから話は進んでいただろう。



そして、全ての管理職は会社の倒産の翌日から新しい会社に通うことになる(強烈である)。僕はこのM部長を許すことは出来ない。
自分は次の会社を決めておきながら、組合員を働かせるために騙したとしか考えようがない。

組合員は、その後も職もない者が多く、皆苦労した。【注4】











僕は、総務部長の予言通り(交渉の過程であんまり生意気な事言っていると田舎じゃどこも雇ってくれないぞと言われたのである)、地元の企業で雇ってくれるところもなく、ソフトの仕事に戻ることになる。
その後十年東京の会社の下請けとして生きることになった。






【注0】
最初の子どもが1999年9月に生まれた。ちょうどその時に組合の委員長になった。
ほぼ半年後に会社が倒産(解散)することを新聞報道で知ることになる。

大平洋金属と新潟金属は、資本関係はなかった(単にすべての売上を大平洋金属が占めていただけだった)。

当時、組合はまさに御用組合だった。

委員長を何期か努めると、課長代理になって、経営陣の下っ端に入る。
そんな体質はおかしなものとしか見えなかった。

唯一、経営者に歯向かっていた委員長のKさんは飼い殺しにされて、ずーっと下っ端だった。
僕は彼を尊敬する。


僕は、会議では経営陣ときちんと話し合って納得のできないことは容認しなかった。
僕のいた部署は、スリッタと言って物凄く怪我が多く、縫わなければならない様な傷も隠されていた。
労災が無いことが、適切な経営であると役所に評価されたかったのである。


3つ有った事業部のもう片方が事故が発生していないということで表彰(確か金一封も)するという議題に対して絶対に賛成しなかった。そもそも、仕事の内容が怪我がしにくい性質のものであった。
そういう表彰は、ますます怪我の隠蔽を刷っ済ませると感じたのである。


僕が働いていた3.5年の間に2名の社員(1名は下請け)が死んでいる。

とにかく、組織の欺瞞と隠蔽が蔓延していた。

事故で、僕の左手には傷が残っている。
もう少しで指を切断する所だった傷は今での寒くなるとしびれる。

それでも、工場の労働環境としてはいいほうだと言われた。


学校のいじめの問題とその隠蔽体質と同じように僕には感じられる。


【注1】
当時、社員は複雑な経路をたどり着いていた。
最近まで大平洋金属の出向者だった社員(一旦退職金を受け取って社員になっているために勤続年数がリセットされる)
多くの社員は20年近く前に一部業務を新会社に移管した時に退職金を受け取っていた。
新会社化以降の社員は、それがなかった。
面倒なことに、下請け会社から途中入社した社員もまた、退職金を受け取っていた。

当然、皆不満がある。
その不満の矛先は僕に向かった。


【注2】
大平洋金属新発田工場が閉鎖されて、新潟金属が一部の業務を受け継いだ時のことを聞いた。
親方が、職人に仕事してくれというと、「おめさん勝手にやればいいさ」と言われたそうだ。
それはそうである数カ月後には給料もらえなくなるのだから、誰も仕事などしない。
当たり前のことである。
結局、次の仕事を保証されている一部の社員が熱心に働くのである。
大平洋金属はその当時から「首切り」の得意な会社だったそうである。

僕にその言葉を語ってくれた彼(定年退職した)は
新発田のしょ(人々)は肋骨が一本足りない(馬鹿である)んだよね」「本当に馬鹿でこれほど首切り安い会社はなかったんだ」と言ってくれた。
組合の委員長として、臨時雇用扱いの社員の首切りに徹底的に反対していた僕を評価してくれたと思っている。

臨時雇用者の首切りを組合の方針として拒否していたのだが、組合員の中からもあの連中はこういう時にクビになるために雇われているのだから、容認しろというものが出てきたのである。
僕は孤立して、結局首切りを容認することになった。


実は、経営が困難であるということになった時に会社は「一時帰休」を行い職安からお金をもらった。
所が、5−6人の臨時雇用者を解雇して、この補助金をもらえなくなったのである。

一致団結して困難に向かうという考え方を持てなくなっていたのである。
新潟金属の社長(親会社の取締役)はこの時点ですでに会社の解散を決心していた。

新潟金属独自に営業して、売上を伸ばそうと話したが全くまともに取り上げられることはなかった。

【注3】
大平洋金属の社宅に入っていた連中は翌年の3月末までの入居が許可されていた。
7月に会社は解散することになっていたので通常の退出規約では2ヶ月後に退出することになっていた。
僕は社長に大平洋金属並に翌年3月末までの居住を申し入れていた。
組合との和解契約には入れなかった。組合員で社宅に入っていたのは少なかったので、交渉が遅れるのを嫌ったのである。

僕が会社を去る時に総務部長は封筒に入った紙を渡した。
そこには9月までに出るようにと書かれていた。

他の入居者は12月(10月くらいまでお情けの仕事もらっていた社員がいたのである)には皆退出した。


僕は、結局3月までいた。
総務部長と交渉した時に家賃の話も出た。欲しかったら取りに来いと言ったのだが、結局一回も取りに来なかった。

大平洋金属は僕個人に対して300万円の損害賠償の民事訴訟を起こしてきた。
結局は、3月末で転居することになり、和解した。

【注4】

結局、一部門が残り、20人が再雇用される。

最低の賃金とボーナス無しの待遇である。

その部門が残ったのも「過去に資産として計上するべきであった材料」を「廃棄したと偽りヤードにとっておいた」為である。

その材料から製品を作っていた会社が買い取ったのである。

僕は、次の会社での雇用契約や、誰が雇用されるかなどという項目も組合の交渉で決めるべきだと話したが、そんなことに賛成したら自分が雇われないと言って、誰も相違してくれなかったのである。

やっぱ、シバタ者は、肋骨が1本足りなかった。

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