ジュリア 市民運動という言葉を聞くと思い出す映画がある

 

ジュリアという映画を見たのはいつの頃だったろうか。
スターウオーズの最初の作品と一緒に映画雑誌に載っていたのを覚えている。多分その頃だろう。

リリアン・ヘルマンさんの小説フレッド・ジンネマンさんが映画にした。

ジュリアというイギリスの上流階級の女性がナチスに対しての抵抗運動の為に幼馴染のリリアンにお金をベルリンに運んでもらう物語である。

ナチスの支配する国でそれに異を唱えることは命がけだった。
それでも、言葉を発して、行動にうつし、傷つき命をかけることはすばらしいことだと思う。




かつて、労働運動は違法であった。
虐げられた人々がストライキを繰り返し、警察や軍隊に殺され、傷つけられながら積み重ねて認められた権利である。


僕の中では、この2つは切り離すことは出来ない。



市民運動の人々を僕は尊敬する。
今、声をつなぎ合って行くコミュニティを作っておかなければ社会がおかしな方向に行った時止められない。

だから僕も動き出さねばならないと思う。



権力というのは恐ろしいものである。
市民を平気で殺す。
弱者を少数の存在として追い詰めていく。マスメディアはさも正当であるかのごとく報じる。

政治は、既得権益の取り合いの世界である。
すべての既得権益者はその存在において、敵対しあっていても市民を排除しようとする。
そして生活者である市民もどれかの既得権益のグループに取り込まれている。


原発に雇われている住民は生活者である自分をかえりみた時賛成せざるを得ない。
それを否定することは出来ない。
どこに答えがあるのだろうか。



様々な状況をを自分の問題として捉え直すことの出来る強さを持たねばならない。
政治的無関心は私達を蝕み、波が砂を深海に運ぶように民主主義という海岸を侵食していく。

自分の歩ける範囲の中で共感しあって、侵食されていく美しい砂浜をもっと豊かにしていけるだろうか。
人が人として、その内面を見つめあい、尊重し合うことが出来る社会は果たして可能だろうか。




リリアン・ヘルマンさんはペンティメントという言葉について語っている。

時が過ぎた後で、絵の具が透けてきてその奥にある姿が見えてくるこ事のようだ。
僕は父や母の言葉を聞き戦争を考える。
言葉の底に隠れている物を見つめたいと思う。


僕は子どもたちに言葉を綴る。
言葉の上澄みを透かし見て、その下に描かれている物を見つけてくれるだろうか。


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