人生とはそう言う物だ。 SO IT GOES.

昔から持っていた写真をスキャンした。
1250枚を1時間もかからなかった。


色々な事を思い出した。

大学を卒業してすぐに入った会社である。
新評論と言う会社である。

半年で首になり、バイトで食いつなぐ。

マルコーと言う会社の子会社で『エムジー MG』と言う不動産の管理会社に入る。

ルームガイドと言う雑誌を作っていたので、そこの編集で入るのだが営業もやるし何でもさせられた。

ここの会社が一番勉強になった。
総務のSさん、情報処理室のSさん、元気かなあ。
2人は僕の恩人である。

この頃kさんと言う子が好きだった。
皆で飲んでいる時に、営業の「嫌な奴(既婚)」がその娘と「仲良くなった」と言う事を自慢げに話しているのを聞いて憂鬱になった。

ここにいたら、自分が10年後あんな男に成るかと思ったら憂鬱になった。




絶対にそうは成りたくなかった。


一生懸命に、それこそ本当に一生懸命に頑張って、転職をする事になる。




マルコーは金が集っていた会社だったのでニュービジネスに多くの投資をしていた。

エムジーが雑誌の為に集めた不動産情報を学研の『B-BOX』と言う情報端末に毎月2千万円を払ってのせる事になった。
『システム◯R』と名付けて僕が担当者になったのである。

不思議な体験だった。
多くを学んだ。

学研メディコン、3Aシステムズ、いろんな人と出会った。
学研の社史を見るとこの辺りの事はほとんど載っていない。
しかし、僕にとっては勉強になった。

この時の上司がIさんである。
マルコーの金澤正二(しょうじ)の真下にいて色々と経験した人である。
ソフト会社を辞めて独立した時に彼の会社に入り、経理のソフトを作った。
人生は何が起こるか分らない。そして彼は今何をしているのだろうか。


リースマンションと言う考え方、不動産会社の仕組み、多くを学んだ。
不動産業界にはいつかリベンジしたい。



MACと出会ったのは、この場所である。

MAC IIが出た頃に、不動産の図面を書くのに使えると思われて導入された。
その頃、僕はマルチプランの達人だった。

MAC + で動くExcelと出会って、心底ビックリしたのである。
1985年くらいの話である。


そして、ハイパーカードと言うソフトに没頭する。
地図から不動産物件を表示するソフトを作り、社内でこれで行こうと話しをした。

学研に毎月2千万払いながらである。


マルコーが潰れる前に僕はソフト会社に転職するのであった。
持株会の株を売って300万円を手にした。

日本リニアックと言うのが転職した時の会社の名前である。
その後、キャノン販売の子会社と成り、キャノテックと言う会社になる。

3年くらいで会社を辞めるが、楽しかったなあ。

左から、親友のSさん、僕、営業の人、Oさんである。
毎月300時間残業をした。
会社にすんでいる様な物である。
この頃から、会社に炊飯器を持ち込んでいた。


2年くらいの独立時代が有る。
Cpointと言う会社でIさんという人が社長で、経理のソフトを出した。
売れなかった。
あの会社の人は今、何をしているかなあ。
検索しても見つからないのである。
食い詰めて、新潟に帰る事になる。

新潟に帰るが、いい職がないので、大阪に半年くらい、いた。

今も思うが、大阪は僕の第二の故郷である。


おじさんのコネでオリジナル設計と言う会社に入る。
数年大阪で修行して、新潟に戻るように道が決められていた。

が半年で首になった。

頑張り過ぎは良くない。

野球は楽しかった。


首になった後で、四国をバイクで回った。
讃岐うどんは旨かった。

新潟に帰って、ジムニーと出会う。
中古で25万円だった。

このジムニーを売ってくれた自動車屋さんが、今の奥さんを紹介してくれる事になるのである。

新潟に帰ってから印刷会社に少し勤めるが辞めた、
新潟の味噌屋さんの情報部に入社する直前にオヤジの鉄工所に勤めることにした。


印刷会社に入る直前にジムニーで長野にキャンプに行った時の写真である。
20歳の始めにに免許を取ってから自動車の運転はしていなかった。

ギヤチェンジを全く忘れていた。道を走りながら思い出していた。恐ろしい事である。


おやじが50年勤めた鉄工所に入った。
しかし、鉄工所の毎日は苦痛であった。

やがて、この鉄工所は親会社に潰される。
娘が生まれた頃の話である。


この労働争議の頃が、人生最高の日であった。
いまだにこの記録は破られていない(笑)。


バイクだけが友人だった。
東京の友人とは音信不通。

ソフト会社辞めて、新潟帰って、鉄工所に入ったと言うのは余りカッコ良くない。
そう思っていた。

しかし、自分が思っているように人は見ていない。

会社が倒産した時に、東京の友人から仕事の話が来た。
嬉しかった。

そして、ソフトの世界に戻ることができた。

その後その友人とは喧嘩してもう会う事はない。


従兄弟が一人でやっていた、平野屋と言う会社に入った。

お惣菜を作って地元のスーパーに卸す会社である。
ここで経理や総務の知識が役に立ったなあ。



NさんとTさんが、飛び込んで来て社員と成った。

3人で頑張った。

NさんTさん共に学び、僕も学んだ。

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関東圏の会社からの仕事があったおかげで6-7年続いたが、そこに切られた時に終った。
その後この会社とは一回復縁話があがるが、結局縁が切れる事になる。

平野屋と言うのはおやじの実家で、昔店だった空間が倉庫になっていたので整理してここで働く事になった。

楽しい数年間で有った。

ベーコンを作るつもりだったが、上手くは行かなかった。
このベーコンが売れていたら、また違った人生になっていた。

この後、数年の自営時代が有る。

自営業時代に、新潟で国体が有った。
ゴルフ競技の集計プログラムを作る事になり、それが、上手く行った。
高校美術連盟の仕事が入り、それが、上手く行った。

捨てる神有れば拾う神あり。
人生とはそう言う物だ。


perlでwebアプリを作ることにした。

『平野屋コンピューティング』と言う会社を作って今年は二年目である。

NICOと言う組織の運営しているトキメッセのオフィスに一旦入るが、ソリが合わないで早めに出た。

確かに、窓の外の風景は新潟で一番である。



今は新潟市の運営する『e起業館』にいる。(2014年新発田の自宅に引き上げて仕事しています。2019年10月現在)

これからの10年、どうなるのかなあ。


まあ、成るようになる。
人生とはそう言う物だ。 SO IT GOES.



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