教室の親としての教師、家庭の教師としての親 (1) 教育行政の分割統治

今日学校の役員会に行って、ペーパーを配布してきた。
以前、僕は校長に発言するなと言われたので、なにかペーパーを作らなければと思っていた。

そこで、このペーパーを作って10人余のPTA役員に配布した。
返す刀で教務室で配布した。

基本的なコンセプトは、親と教師が連帯して教育を創ろうというものである。

なぜ、教師と親は対立しあうのだろうか?
ペーパーを作る過程で浮かんできた疑問である。


ここで言う教師には「学校管理者」は入らない。
学校管理者は文科省の役人であり、学校の運営に責任を負わされている存在である。
現場で生徒と接すること無く、日夜接している教師を管理する役割をもつ。

そして、学校管理者=文科省は教師と親を分断しようとしている見える。

歴史的にどのような経緯を持っているのかを調べる必要が出てきた、




『教師のための 失敗しない保護者対応の鉄則』と言う本を先日読んだ。
作者は河村 茂という男で、文科省のお墨付きである。
繰り返し「あなた方(教師)は教育のプロなのだから自信を持って親を指導しなさい」と言う言葉が出てくる。
教師は「親」よりも上位で指導する立場なのだと考えられている。



教育機関は現在の権力を維持しようとする。
中立的な教育などというものはない。

そう考えると、色々と見えてくる物がある。

ヒドゥンカリキュラムとか考えるとよく分かる。



どうして、権力は教師と民衆を切り離そうとするだろうか。

ポルポト毛沢東も教師をインテリとして殺している。
教師が民衆の側に立っていないと判断されたのだろうか?
象徴的な話のようなきがする。


ドーデーの月曜物語では教師が占領国民の言葉を奪う尖兵であることを田中克彦先生が書いている。

占領下の韓国での日本語教師の物語も調べてみたい。
当然、日本の戦時下の教師の問題も入る。


これから、そのあたりの勉強しなくっちゃ。



知識は力であるから、大衆は馬鹿のままにしておきたい。
学校の教師が、「子ども」と言う「かすがい」で民衆と結びつくことは防ぎたいのだろう。

近代教育が、学校という組織を通じて優秀な人味を集める。
そしてその権威が次なる支配者の奴隷を再生産する。
大衆が知恵をつけることを防ぐという役割も持つ。




そういう観点からの歴史的な検証が見当たらないなあ。



戦争に子どもを送り出した先生の苦悩を描いたものはある。
悔恨に悩み、戦後の日教組を産んだ原動力だったのかなあ。
日教組が、大衆と結びつく道を選ばなかったのは大きな間違えだったようなきがする。


指導ではなく共感を!



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