「ことばと国家」再読「社会変革の言語学」【 田中克彦先生の『従軍慰安婦と靖国神社』を読んだ(2)。】

先日、田中克彦先生の『従軍慰安婦靖国神社』を読んだ。
ネットにはバカが多く、先生の著作を読むこともなく愚弄する輩がいる。

思い立って『ことばと国家』を読み直してみた。
最初に買ったのは多分大学からの帰り道の古本屋だったろうかなあ。
すでに、最初に買った時の岩波新書はなく、何冊目かの買い直しのようだ。

1981年だから、先生が40代後半の著作せある。
ドーデーの月曜物語の中の「最後の授業」を例にして、国家がいかに私達を「ドジン=ドレイ」として支配しているかを浮かびださせる。(P121〜P128)

実に素晴らしい論考である。

最近、「学習する学校」と言う本を読んだ「学習する組織」の姉妹編である。

その本の中で、「批判的教育学」と言う考え方が紹介されている。

従来の「教育」とは、『権力のない人を同化させて適応させて現状を強化維持しようとする』(P376)
従来の「教育」は政治的な中立性も持たない、未来を見ていない、現在を再生産することしかできていない

この考え方と田中先生の見た物は完全に一致する。

30年の時を隔てて、僕はまた出会えた。


「学習する学校」に関しては、どこかでゆっくりまとめたい。
今取り組んでいる『イジメ』『阿賀野高校の自殺』の問題と見事に一致する。


ソシュール著作を世界で最も早く翻訳がされた日本がいかに無理解だったのかということをあとがきで書いておられる。
今読んでみれば、まさに異端と呼ばれてあたりまえだなあと思う。

そういえば、大学の4年の頃、ドイツ語の先生と酒飲んでいて、「ことばと国家」が素晴らしい本だということを話したら、本気になって「あんな物はたいしたことはない」と言われたことを思い出す。
N先生は今何しているのだろうかなあ。


網野先生と田中先生は僕の大好きな先生である。

考えてみると、憲法学や刑法が好きだったけど、専門バカ(というほど勉強もしなかったが....)にならなかったのはこのお二人に出会ったためかもしれない。




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