ダンシング・ヒーロー、二つの文化の融合

<----この項書きかけ------>
僕はこの映画が好きなの。


僕らは、本能として、踊り、歌い、跳び、走る。
そんな生きる喜びを型にはめ、その利権をビジネスにする連中がいる。
税金を食らう「各種のスポーツ協会」や「音楽などの著作権=利権に群がる」連中である。

しかし、天才的な表現者はそんな枠を飛び越えて生の喜びを伝えてくれる。

この映画の主題はそれである。
『お前は本当に生きているのか』と僕に問いかけて来る。

そしてこの映画の構図は「セイントオブウーマン」「オペラハット」「スミス都に行く」と言った『「ブラボー民主主義」映画』と同じものである。

権威が否定しようとする「何か」を民衆の力が肯定して、新しい価値が社会の中で生まれる瞬間の物語である。

今を生きようとする自分が勇気を出せる映画だ。


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舞台はオーストラリアの都市、時代は1980年代、娯楽は多くなく、都市とは言っても地域の共同体的な意識は強い。
ヨーロッパ系の移民が社交ダンスを娯楽としている。白豪主義(オーストラリアの白人至上主義)の社会である。
スペイン系の移民が町のはずれに住んでいる。



社交ダンス教室の息子「天才的なダンサー」と、その教室の掃除したりする『スペイン移民の目立たない下働きの娘』の物語。




ここで提示される問題は全く古びていない。確実に今の問題である。というよりも「人の社会の構造」として常にある問題である。そして映画的な素晴らしい表現が重なって行く。

『二つの文化の接触と新しい文化の創出(歴史は地理にかなわない)』『世代の確執と新たな安定』『父と息子の物語』『父と母の物語』
この問題は神話、民話の昔から世界の終わりまで存在する、普遍性を持つ。



【バックッボーン(最初に見えている風景)】

社交ダンスの大会があり、その大会では伝統的なステップしか許されていない。
ダンス業界はチャンピオンを頂点として沢山の素人のレッスン料、ビデオの売上、大会の入場料を役員が分け合う利権の集団である。チャンピオンは『お手本』を踊る事を強制される。

自分で感じた事を表現すると言うことは許され無い。なぜならばティーチング体系が否定される事になるからである。
生徒に出来ない(教えられない)ステップは邪魔なのだ。

家元制度と言うものは『これが美しいものだ』と言う定義と『レッスンを受ける事で自分もそうなれる』と言う保証によって成り立っているからである。

自分の感性を表現する踊りは「ニューステップ」と呼ばれそのようなステップを協会は否定する。

チャンピオンは協会の宣伝塔である事に耐える為に酒浸りになる。
ダンス大会に出るが息は酒臭いのである。そしてどの大会でも出て踊っているだけで優勝する様に仕組まれている。



大会に勝つ事は、教室の優劣を決める事なので色々な教室が競い合うし、ダンス協会の思惑も入って来る。

彼の父親はダンスの出来ない駄目オヤジ:レコードかけたり自動販売機の補充するばかりである。
母親は化粧品を売ったりレッスンしたりで忙しい。
教室には父親と同年代のコーチがいて彼も教えてもらっている。


そしてその風景は様々な問題を浮かび上がらせる。



1)彼の家族の問題
お母さんとお父さんは目を合わせない、話もしない、ダンスもしない。
何か大きな問題があった様な感じがするが、それは分らない。

2)彼女の家族の問題
スペイン系の彼女の家族はオーストラリアの社会の中で孤立している。
母は早くに亡くなり父は頑固で叔母が母がわりになっている。

3)彼自身の問題
今の踊っているダンスに対して満足出来ていない。
自分の人生が人の物の様に感じている。チャンピオンの様に酒浸りになる事を恐れている。


地区の大会で彼(スコット)はニューステップを踊り、優勝出来ない。パートナーは怒りコンビは解消となる。酒浸りのチャンピオンが優勝するのだ。

彼はパートナーを捜し始めるが、上手く行かない。

そして、教室の下働きの女の子が彼のパートナーとして立候補する(こっそり)。

ところが、彼女は当然駄目っこなんだ。眼鏡かけているんだけど、容貌もださくてみてるのも辛いのだ。
彼は相手にしないと彼女は怒り、チャンスを与えないお前は協会と同じだと怒る。

スコットは彼女に名前を聞く。2年間下働きでいた彼女の名前を彼は知らなかったのだ。
相手の名前を聞くのって良いよね。時折映画で出て来るけど僕は大好き。




【自分に見えていなかった世界】


彼は興味無さそうにフランにレッスンをするのだが、突然フランは切れてフラメンコのステップを見せる。

伝統的なステップにはない情熱的な表現がそこにはあって、彼はビックリする。
今まで伝統的なステップを奇麗に決めていれば高得点が与えられている世界からは考えられないステップだったから。

生命の力強さをストレートに出して行くフラメンコに圧倒されるのだった。
しかし、そのステップは「ニューステップ」と呼ばれ伝統を重んじる協会からは拒否されるものだった。
大会で、協会から拒否されるステップを踊ると言う事は、教室の閉鎖、ダンスで生きる道を閉ざされると言う事だった。




はっきりは描かれないが、パートナー選びの過程でスペイン系の下働きの女を選ぶと言う事にはタブーなのだった。
彼の母や協会の会長は狂った様に反対する。


そしてスコットはフランの家に行く。

彼女は父親と、叔母と暮らしている。
家は、線路の傍で、大きなダンプが行き来する道路に面している。

いかにも肉体労働者の父親は、猛烈なフラメンコダンサーで素晴らしいステップを見せる。
スコットは馬鹿にしていたフラメンコ:パソドブレ(スペイン文化)を見せつけられる。そして、その中に自分の求めていた「生の力強さ」を感じるのだ。

スコットは、徐々にフランの家族と打ち解けて行く。このシークエンスが一番好き。



大会に出てニューステップを披露しようと彼は決意する。



【因果は巡る】

協会の会長に父親の過去を明かされる。
彼の父親は天才的なダンサーだった。母と大会でニューステップで踊るが優勝出来なかった。
そしてダンスを捨てた。
彼に別なパートナーと踊り父に果たせなかった夢を実現する様に話すのだ。


彼はそんな過去を教えられる。


【裏切りと自分を貫く決意】

父の事を思い、ニューステップでの大会出場を諦めるのだった。それはフランを傷つける。

そして会長や父母が選んだパートナーと出場する。
最後のステージに出ようとするのだが、そこでスコットの駄目オヤジはスコットに話すのだ。


自分は昔「ニューステップ」を踊る事が怖くて大会に出なかった事、母はコーチと踊り優勝出来なかった事、勇気がなかった事を後悔していた事をスコットに語る。(会長が言っていた事と全く違うのだ)

父はニューステップを踊る事を恐れ、臆病から大会に出れなかった事を後悔していたのだ。
『生活の為に協会の言いなりに踊った母の裏切り』を許せなかったのだ。



スコットはパートナーを放り出してフランを探しに会場を飛び出すのだ。

そのころ、コーチは会長の八百長を知る。最初から優勝は協会の言いなりに踊る「チャンピオン」に決まっていたのだ。



人生を恐れるものは、人生の半分しか生きる事はない。
A LIFE LIVED IN FEAR IS A LIFE HALF LIVED<<<<<<<<ここからyoutyubeの動画>>>>>>>

最後の種目に飛び込んで、スコットとフランは踊る。そして彼らの踊りは会場を魅了する。



会長は音楽を切り、『スコットとフランは失格だ』と退場を命じる。


会場は静まり返り、、スコットとフランは踊りを止める。観客は見守る。
観客も、、スコットとフランも、権威の元に動けなくなっている。


その時、父親が拍手しながら進み出て来る。「俺はお前達を評価する、もっと続けろ」と言う拍手である。
自分が出来なかった事を息子が成し遂げた事への喜びである。



会場の皆が父を見つめる。
彼女の家族、協会に疑問を持っているダンサー、観客たちは拍手をはじめる。


満場の拍手のもと、2人はまた踊りだす。

協会と言う権威がひっくり返される瞬間である。
協会なんてもんは、一人一人の喜びを求める本能の上がりをかすめ取っているだけのものだろう。

観客は熱狂する。形ばかりのダンスではなく、生命の喜びを表すダンスを眼前に見たからである。


しかし、母親は最後まで拍手が出来ない。
やはり、彼女も臆病から夫を裏切った過去をどうして良いのか分らないのだ。
裏切りながら、夫婦であった長く辛い生活をどうして良いのか分らないのだ。
そして、スコットとフランの踊りが終った時、父親は妻に手を差し伸べて問いかける「Shall we ダンス?」と。
そして2人は20年ぶりに踊るのだった。

妻が生活の為に裏切った事を許し、自分の勇気のなさを許し、お互いに正面を向き合わないで、喜びを分かち合えなかった人生を水に流すのだ。

父は息子に小さくウインクをする。

フランは客席の叔母を見る、叔母は亡くなった母の面影を見て涙する。

もうこの辺で僕はボロボロに涙が出て来る。
スコットとフランは二つの家族をよみがえらせたのだ。

人と人とは結びつきながら生きる。時に行き違いからその結びつきが苦痛になる。


【そして大団円】

ステージには次々と観客が飛び出して来て皆踊るのである。
フランの叔母は教室のコーチと、フランの父はスコットのパートナーと、チャンピオンも酒を飲まなくても楽しそうに踊る、皆踊る。


協会の会長は踊れない。その輪には入れないのだ。
カツラが吹っ飛んで、ひっくり返った優勝のトロフィー並んで楽しそうな踊りの輪を見ているだけなのだった。
会長の妻は「あんたも頑張って来たんだから良いじゃないの、お疲れさま」と。

実に優しい映画だなあと思う。



イタリアでサッカーの試合を見た時に観客がグラウンドに飛び出そうとする所を思い出した。
スポーツは見ているもんじゃなくてやるものなのさ。

僕らは人生の喜びを歌い踊る事で表す本能が有る。
それをネタにピンハネして人生を送る奴らはどうしようもないのだ。


この後どうなるんだろうかなあ。

時に僕はシニカルなエピローグを考える。
スコットは新しい権威になるだろうが、新たなる権威はまた誰かがひっくり返す事だろう。


坂口安吾堕落論』を思い出す。
http://www.inet-shibata.or.jp/~diet/o_democracy/o_person_ango1.html
安定しようとする社会の中で自分の本能に従い「生きる」事は「堕落」である。
安吾は、それを肯定するのだ。

社会(権威)から見たらニューステップは堕落である。

そしていくら「堕落」を続けようとしても、人はどこかでまた権威や制度を作る。
人間に対しての洞察の深さが凄い。




【他人の人生を生きると言う事】
世襲と言う問題が「政治家」「公務員」「教師」と言った職業で問題となっている。

世襲自身は当たり前の事なのだ。
お百姓さんや、八百屋さんや、魚屋さん、床屋さんを考えれば、「自営業」はほとんど世襲ではないか。
何もおかしな事ではない。

問題は、そんな自営業の小さな会社が、大きな会社になって来たとき、税金を給料に貰っている様な職業の時である。


自分は違う事をやりたいのに、実家を継ぐ為にこの仕事をしていると思うと『他人の人生を生きる』様な気がするのだ。
同時に、生活を考えると、安定を求めたい気がする。


ロンゲストヤードと言う映画で、所長の言いなりに生きようとするバートレイノルズが、昔所長を殴った為に終身刑務所にいる事になった爺さんに『後悔していないか』と聞くシーンが有る。僕はいつも涙が出て来る。楽に生きようとしない事は苦痛に満ちた道かもしれないが、後悔しない道である。


この映画では、「ダンス協会」の言いなりになるチャンピオンが出て来るが、彼はこの「世襲」によって他人の人生を生きる事になる。
最後のダンスシーンで彼は笑顔で踊っている、僕はここがとても好き。




この動画は完全にネタばれだけど、映画を見る機会のない人は見てね。







この映画は最初、WOWOWで偶然見たのです。安い値段のDVDが出ていないのが残念なのです。

2010/7/10:ポスレンで借りることができた。実に7年ぶりくらいに見た。

これは奇跡の映画である。この監督の他の作品は面白くない。

踊りや音楽が主題になっている映画は難しい。映画の中の踊りや音楽に説得力がなければならないからである。

周防正行 の『Shall we ダンス? (1996年)』なんかは完全に影響受けていると思うのだが.....

社交ダンスの競技の中にフラメンコが入って来たのは歴史的にどうなんだろうか?
この映画の「時代考証」「社交ダンスにフラメンコが取り入れられるプロセス」はいかがなものなんだろうか?

ダンスに強い人教えてもらいたいなあ。