幸運な病のレシピ( 856 )夜:ビール飲みたい(依存症の話)、バラ焼肉、手羽先さんごめんなさい、汁

今日の食事が死に方を決める、明日の食事が生き方を決める。
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【 2018/12/27の食事 】



豚バラの少し厚めのスライスをテリ入れて炒めた。
汁は食卓のキング !
手羽先、ボールにとって塩しておけば良かった。少し匂ってべたついていた。
さよならした。ごめんなさい。


ああ、ビールのみたいなあ。



依存症という現象を考えるようになったのは、炭水化物をどうしてもやめられないからであった。
僕の場合、もっと大きな問題は「酒」である。

癖だからとか習慣だからというのはその通りだが、何の役にも立たない。ただ言い換えているに過ぎないのだ。






「自己治療としての依存症」という考え方に出会ったのは2016年の1月の頃のだ。
2016-01-30 依存症の研究
2017-09-26 「精神病、認知症学習障害」自分に理解できない『存在」を排除するか治療する社会
2016-05-25 酒は体に悪いが、心にはいい。飲むかなおまないかは自分で決める。
2016-06-07 5回目の母の月命日 記憶している事、思い出す事






何が辛いのだろうか?
飲んでいる暇はないと行って飲まないで済めばいいのだが、現実にはそうはならない。

医学関係者は「酒は肝臓に悪い」というが、あれほど偽善的な表現はない。

アルコールは「私というコロニー」(=身体)のすべての細胞とマイクロバイオームに影響を与える。
その影響は炭水化物と同じように抗えないものなのだ。
決して「身体の部品としての肝臓」だけに悪いのではない。



しかし、心にはいいのである。
心はどこにあるのだろうか?
脳の部品ではないことはわかっている。
これだけ脳を分解して分析しても物理的な場所との対応関係は見つかっていないからである。
もう「心は『脳の物理的な場所』と対応している」という仮説は捨てたほうがいい。




脳は長期の記憶を維持する装置である。
しかし、その運用には長いトレーニング期間(0才〜12才)が必要となる。
その期間の間に「言語の習得・コミュニティの維持のルール・調理の仕方」を(非言語的な方法で)学ぶ。
非言語的な学習を私たちは「癖とか習慣」と呼ぶ。

そして食事に対しての依存は物理的な身体の構造と対(砂糖は甘い、酒は酔っ払う)になっているから厄介だ。






ではどうすればやめられるのだろうか?
僕には、母と過ごした最後の1年が思い出される。
僕は母の認知症を気遣い、母は僕の糖尿病を気遣った。
家族というシェルターの意味を考え始めていた。


エレメンタリーという海外のドラマがある。シャーロックホームズが現代によみがえるのだが、主題は依存症である。
依存症を社会の問題として捉えている。そして、今の私たちを描いている。
酒を飲みたくなるとそんなことを考える。

まだ僕は「ギリギリのところ」にいるのかもしれない。







今日は寒かったからか、1日こなかった。昼にご飯を運んだのだが、夕方食べていた(一杯やっていたようだ)。

なので晩御飯は遅めに持って行った。
人生は苦痛の連続である。人はみな定期的にこういう日が来る。老人だから悩みがなくなるわけでも、苦痛に慣れるわけでもない。夜中起きている頃に行った。








今朝からのおかずを食べた。
焼肉もうまかった。

酒飲むとカップ麺食っちまうのはなぜだろうか?

物理的に頭がいたい。




妻にパセリとセロリを買ってきてもらったので鳥と一緒に漬け込んだ。明日はこれを焼くことにする(笑)。

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