PTAの副会長になった。イジメの議論と、これからの活動 NPOに向けて。
イジメと呼ばれる現象に何とか関わっていきたいと思っている。
僕自身が、イジメを受けた事があるからである。
2012年には3年くらい議論を続けていきたいと思っていた。
PTA総会が先月の末に有った。
一番最後に挨拶をすることになって話そうと思い原稿を練った。
その2週間くらい前からすこし準備をした。
沢山の人に話をして、話を聞いた。
すこしずつ、言葉が集まり、変化して原稿ができた。
PTA総会の最後の挨拶でスピーチをした。
先生や出席していた親たちはどう感じたろうか。
これから僕達はどこに行けるのだろうか?
PTA総会発言のレジュメ
平野屋コンピューティングの代表取締役の齋藤真也ともうします。
中学校2年生の頃、いじめにあいました。毎日死んでしまおうと思いながら運良く今ここにいます。
副会長の仕事の打診を受けた時、ずいぶん悩みましたが、あの頃の僕を助けることができるかなと思いやってみることにしました。【総論 導入】
イジメについて、文部省は、被害者と加害者の関係と考えています。
私はそうは考えません。
皆さん経験はありませんか?子どもに「誰それとは遊ぶな」友達と遊んで帰った後で「挨拶もまともに出来ない」。あの親は服装が派手だとかおたかくとまっているとか言うでしょう。
そんな親の言動を子どもは敏感に受け止めてイジメを行います。3週間連続して給食当番をした子がいます。時間内に終わらなかったら次の週も行うというルールがあるそうです。なんで遅れたのか聞いたら一人の子がサボって遅れたそうです。その子はサボた子を学校の中で一番嫌いだと言っています。
学校の活動において、教師の指導が適切で無い場合、イジメを生むとは考えられないでしょうか。【社会性を学ぶ】
猿や人といった群れを作る動物はその群れの中でどう振る舞うべきかを学びます。
家族、教室、班活動、給食当番、掃除当番、サッカーやラグビーの言ったスポーツを通じて群れ(コミュニティ)の中で「弱いものを助けたり、リーダとなる」というような社会性を学びます。
そうして学んだ社会性は、社会に出た時に重要な資質となります。イジメというのはそうした社会性を学ぶ為の「遊びの場」でおこる現象だと研究者は言います。
いじめは私達(親、教師)が誰をいじめるべきかという指示を行い、子どもはそれに従っているのです。
【イジメは見ることが出来ない、自殺する子どもたち】
自殺した子の周りの者は「遊びだった、いじめているつもりはなかった」といいます。教師はイジメとは見えなかったといいます。
それはそのとおりなのです。外見的には社会性を学ぶための「遊び、ゲーム」にしか見えないからです。イジメと、「遊び。ゲーム」の差は「攻守交代=公平性を保つためのルール」があるかないかの違いでしかありません。自殺した子の報道を見ると必ず「自殺する素振りは全くなかった」と言われます。では「自殺する素振りがあって、やっぱり自殺した」ということは有るでしょうか?
死のうかどうしようかとと言うような悩みを誰かに相談できますか?出来なくて当たり前です。
中学生の4−5%の子どもはうつ病にを発症していると言われます。そのうつ病の状態から自殺は発生します。今この瞬間にも子どもたちはイジメにあい、死にたいと思っていると確信しています。
【学校は裁判所ではない】
学校は裁判所ではないことを親も教師も理解しなければなりません。
イジメの被害者の親は、加害者を罰することを望みます。しかし罰したところで問題は解決しません。被害者からの告発だけで判決を下すことは出来ません。
子どもは天真爛漫ではありません。「狡くて、汚くて、巧妙で、他者を操ろうとします。」わあたし達大人にそっくりではありませんか。私の不登校は、担任と維持の加害者が家に来て食事をして一旦は終わりました。
その後の中学二年生の間僕には一人の友だちもできませんでした、誰も声をかけてくれませんでした、いじめっ子達は別な子をいじめていました。イジメの解決というのは、そのコミュニティの人間関係が修復されねければならないのです。誰かが加害者であるとして罰を与えることでは解決しません。
【社会性をいかに身につけるか】
イジメられている子どもにも問題が有るというのはよく言われます。コミュニティの中で上手く自分自身を振る舞えない子どもの場合はその傾向があります。
僕もそうでしたから、それは否定出来ない事実です、しかしながら、「イジメ」の対象となる理由はありません。社会的にどう振る舞えばいいか学ぶ機会を与えねばなりません。
誰かを罰することでイジメを解決しようとするのではなく、親も、教師も、子どもも自分自身を批判的にみつめる事で状況は変わっていくと思います。
【これからの一年でやりたいこと】
まずは親同士、先生と親、で知りあいましょう。どうして親同士が仲良くならなくて子どもたちが仲良くなれるでしょうか。
そして共に子どもを育てるという場所に立って自分たちの問題点を解決していきたいと思っています。
先日の三役会でイジメ委員会と言うものがない事を知りました。
そこで、勝手に「非公認イジメ委員会」として活動することにしました。子どもに対して持っている不安や悩みをまずは語り合いましょう。
恐らく、僕に明確な解決策はすぐには見つけません。
けど、共に悩むことは出来ます。あの頃の自分に戻って子どもと共に泣くことは出来ます。もっと話を聞きたいとか相談していという方はご連絡ください。
2014/0425 齋藤真也
スクール=カーストという言葉があるが、僕にとっては、ペアレンツ=カーストがそれを生んでいるような気がしてならない。
親たちの関係性が子どもに反映されないはずがない。
『あそこの親は気取っている、高級な外車を持っている、年収が高い、離婚して飲み屋で働いている、夫が浮気している、』いずれも、自分がどの親と仲間になるのかの判断基準である。
決して皆仲良くしなさいなどという気はない。
それは無理なことである。
しかし、『親が誰が気に入っている、虫が好かない』などということがイジメの理由になっていいわけがない。
僕の友人で、「お妾さんの子どもがいる』。
小さいころ、毎日イジメられたそうである。
毎日、制服にチョークでバッテンを書かれたりしていた。
「俺は気にしなかった」と彼は言うが、僕は涙を堪えるのに必死だった。
彼を僕は大好きだ。
地域で生きている僕らは、知らないうちにコミュニティ(仲良しグループ)を作り、何気なく生きていく。
そのコミュニティを操り自分の利益を極大化したいというのはどういう力学なのだろうか?
もう少し考えなばならない。
もっと実例がほしい。
大学時代のゼミの先生の言葉を思い出した。
【第1号 1986年卒業記念論文集】斎藤靖夫
「どんでん返しのない社会」より
.....ところではじめに触れたコラムの最後には、「社会党の一部にさえ自民党との連合論が出るようになったのだから、企業はどんでん返しを心配しなくても」よくなったのだと書かれている。 学生生活の「最後」のために論文集を編み「どんでん返しのない社会」へ出て行く君達に、それでも君達は君達自身と他の一人一人の価値に繰り返し思いを致してくれと願うのは、幻想なのだろうか。人の良心は内にあり、従って人の価値は内にあり、たとえどんでん返しのない社会でも、その内なるものを社会構造的なものにするのは可能なのだと伝えることは、妄言なのだろうか。「最後の論文集」を単なる記念碑にしないために。
先生の言葉の意味がやっと分かってきたような気がする。
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