学校は裁判所ではない。刑務所でもない。
先日、PTA総会で発言をした。
この中に「学校は裁判所ではない』と言う一節を入れた。
子どもがイジメにあっていると知った親は学校側に申し入れる。
担任にイジメの加害者に対しての罰を与えるように言うのである。
そして担任は加害者の聴取をする。
加害者は担任に対して、被害者の悪い所を話す。
被害者の親に「あなたの子どもにも悪いところがある』と話して終わりにする。
このプロセスは正しいものだろうか?
「裁判」と言う言葉で語りたかったのは、現在私達があたりまえだと思っている「応報的司法」は教育の場では適切ではないということを伝えたかったのである。
応報的司法に相対する概念は修復的司法である。
現実の社会においてこの両者は相互に補いあっている。
修復的司法はコミュニティの安定を求めるものである。
ここで言うコミュニティとは、利害関係を持た人の集団を指す。
ある犯罪が起こった時に、被害者と加害者、その家族、その他の関連する人々でコミュニティは形作られる。
例えば家庭で子どもが好ましくない行為を行った時僕らはどう振る舞うだろうか?
何らかの理由で行われた行為の理由を理解して、「家族」と言うコミュニティの新しい均衡を図ることになる。
それは新しいルールを作ることになるだろう。
コミュニティの構成員は常に変化していく。
特に性的な成熟が個体差を持って進んでいくコミュニティでは著しい。
家庭において「子どもの反抗期」と呼ばれるものはそのいい例である。
新しい均衡が必要になるのである。
学校に裁判所の機能を求めることは誤っている。
証拠を集める能力も手段も持っていない教師は「被害者」対「加害者」と言う図式で裁判を行うことは出来ない。
クラスというコミュニティにおいて子どもたちが傷つけ合っている状況に新しい均衡を生むようにしなければならない。
担任、校長、教頭、学校関係者は裁判官ではないのだ。
学校は刑務所ではないと言う言葉がなぜ説得力を持つのかといえば、学校と刑務所は実によく似ているからだ。
両者ともに、特定の目的を持っていない人間が強制的に集団生活をする。
これが「会社」の様な集団である場合は、溶け込めなかったら辞めるという道が残っているのである。
まあ、生活を考えるとなかなかそうもいかないが。
また学校には「不登校」と言う選択があるのだが……..
ではどうすればいいのだろうか?
大人であっても、子どもであっても自殺するヒトは将来に希望が見えない事を考える。
僕は「百年しばた」という市民活動をしているのだが、400以上の企業、商店、個人の人と話をして感じたことがある。
皆、将来に希望を持てないのである。
親が、希望を持てなくて、子どもに希望が生まれることはない。
どうしたら、人生で希望を持ち続けられるのだろうか?
希望の持ち方は誰が教えることが出来るのだろうか?
何となく、見えてきてはいるのだが、まだ書ききれていない。
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