記念の尿糖試験紙(テステープ)

そういえば、当初の糖質制限の時の効果を測る道具はは尿糖の試験紙しか無かったからなあ。


血糖値は5月6日から測り始めている。
食事療法を始めたのは4月8日からだった。
効果を図る手段は、尿糖試験紙しか無かった。
どこに向かって進んでいるのかも分からず、孤独な日々であった。

実に尿糖が検出されなくなるのは5月21日であった

数値を見てみると確かに180を切っている。
これも、やはり、自己血糖測定で、何が上げて何が下げるかを知り、細かく方針を立て始めたからである。

記念品である(笑)。

毎日、血糖値測りながら、尿糖試験紙おしっこかけて、色の変化見ていたなあ。あの30秒が長い。


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BSPの仕様の拡張

幾つかの仮説が有る。これを元にBSPの分析機能を拡張したい。



A1cと日常血糖測定の関連に関する仮説
多分何かあるが、上手く分からない。
とにかく120日刻みでの集計が必要。
日付は指定の日付に対して過去120日を見ることになる。
毎日1/120づつ要素が入れ替わっていくのかと思うと面白い。
この機能はすぐにでもつけようかと思う。

前回の測定日以降の生活の中に何らかの変動要因が隠されているのだろうなあ。




降下率の仮説


血糖値の1時間あたりの下降量がどのくらいかを測ることはインシュリン抵抗性の尺度になる。
それには、隣接する2点での数値の差を見ることで分かる。

少ない測定の場合、睡眠中であるか否かを知る必要がある。
毎日何時に寝るかを設定しなければ、睡眠中かどうかがわからない。



イベントの仮説

現在のプレーンなデータ構造ではイベントの効果の加味ができない。
イベントの要素を血糖値データに追加する必要があるような気がする。


セットポイントの仮説

下降が止まった値が血糖値恒常性のセットポイントである
下降が止まった後で上昇して、一定の値になった時の値が血糖値恒常性のセットポイントである
運動は、インシュリンを介在しないで血糖値を下げるが、下がり過ぎることはない(ほとんどの場合)



目標は、適切な生活を見つけることである。

どんな生活が自分にとっての正しいものなのかを判断するためのものである。

セットポイントを下げること、下降率を下げること、イベントの効果を適切に把握すること。



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糖尿病性眼底網膜症と向き合う。今日(2015/11/20)は記念日

2015年4月8日は僕の記念日である。
眼科医に眼底網膜症がステージ2の最終状態にあり、すぐにでもレーザーでの治療が必要だと宣告されたのである。


しかし、僕はレーザーを選ばないで、食事で直そうと決心した。


今日は別な眼科に行った。どうしても、あの眼科には行けなかったのである。
まあ、眼科なんてどんな医者でも同じだろうとと思いながら、行った。

そして、今日が二番目の記念日(嬉しい)になった。

信頼できる人物と出会ったのである。
僕の糖尿病人生で2人目である。(最初の一人は25年前に出会えた先生で、ご自身もI型でインシュリンポンプをお使いだった。)



結論から言うと、眼底の状態は大変良好な状態になってきていた。

このまま『自己血糖測定+食事療法』を続けてもいいということなんだろうか?

もっと前に進めと「空の高いところにいる誰か」か言ってくれているのだろうか。


前回の検査結果を今回の先生は知らないから、前回の眼底写真との比較というわけではないが........



4/8の診断では、眼底網膜症のステージ2の最終段階で、新生血管が見られ、出血も多く有ると言われた。

その時の対応がバネになって、糖質制限が始まった等なものなので感謝しなければならないが.................(笑)

今日の先生も。最初は、前回の先生のようにカルテから目を話すことなく質問していた。
多分、糖尿病で放置したままの厄介な患者が来たと思っていたのだろう。


ところが、A1cの変化と何も薬・インスリンを使っていないことをお話したら、興味を持たれたようで、熱心に話を聞いてくれた。
BSPのマニュアルを御覧頂いたら(渡ししたら)驚いて、持って行ったスマホで動かして御覧頂いたら、ますますびっくりなさって、話が広がた。

その後眼底写真をとって、見たところ、まだ出血はあるが、こういう経緯で、あったならば、まさに驚き(良い方に)であるそうだ、

質問 回答
出血、新生血管は不可逆な変化なのか たしかにある程度進んでしまうと不可逆であるが、治る場合も多く有る。
前の眼科の診察では新生血管が見られたが、今は見られるか 見られない、ひっこんだんだろう。
今の初見でステージ2の終わりと判断するか そうは思わない。
すぐにレーザーをする必要はあるか 造影撮影をしなければ分からないが、これだけで判断はできない。


可逆的な病状だと言ってもらえたのが何よりも嬉しかった。


先生も山登りをして6kg痩せたというエピソードをご披露いただ、久しぶりに楽しい一時を過ごした。



次回は12月2日に造影剤を点滴して、眼底の白黒写真を撮ることにした。
これから、定期的に診察を受けることにした。


先生の年齢的(60代、白髪)なものや、ぼくの状況(生活が変りA1cの変化もあった)もあるかと思うが、先生との相性は良かった。看護婦さんも偉そうでなく、いい感じの方ばかりだった、病院って、先生によって違うものだ。

妻の運転する帰りの車の中で、経緯を話して少し泣いた。

この半年の不安と、苦悩が一気に消えた。
恐怖は人の判断を狂わせて、奴隷にする。その戦いは困難であったが、乗り切れたようだ。


出会いというのはあるものだ。

人生は面白い。












『生活を変えて、血糖値を下げ、A1cを落とす』どんなに困難であるかは分からないものである。
その上、果たして効果があるかわからないのである。

この半年は辛かった。毎日血糖値を測りながらm
毎日、明日は目覚めたとき目は見えているのだろうか?
と不安の毎日である。
些細な事で、家族にあたったり、情緒不安定であった。

仕事もまともに手につかず(当たり前である、失明したら僕の商売は終わりである)。半年後には死なねばならないかもしれないのである。あの医者の言うとおりにレーザーで焼いていれば失明しないかもしれないのである。そうだったら、ぼくは世界一の大馬鹿者である。まあ、死ぬつもりだったから良いのだが(笑)

どんなことがあっても、あんなふうに患者を脅かすものではない。

非常に優秀な医師と評判だが、僕は人間として、他人の心を思いやることの出来ない種類の人間だろうなと思う。
犯罪用語でいうところの『サイコパス』、関西弁で言うところの『ええかっこしい』、そして『他人が馬鹿に見える病にかかっている』可哀想な人間である。










最初(2015/4/8)の医師の態度は、患者を人間として尊重しているようには感じられなかった。
決して彼を責めるわけではない。
医師であろうと無かろうと『糖尿病で、何も治療をしなくて放置しておいた様な人間は「馬鹿」で「いい加減」なやつだ』と思う。
「馬鹿でいい加減」な奴の対応にはつかれるのだ(笑)。

眼底の写真を撮って見てみた時は
『私は忙しいから、来月予約入れますよ』という。「目が潰れるんだよ、見えなくなるんだよ」という。

生活を変えて少し経過を見たいというと、鼻で笑う。
糖質制限』と言う名前を出すと「分かっていないなあ、失明するんだよ」と繰り返す。

その時は、眼の炎症で診察を受けていた。
次月のレーザーによる手術をしないということがわかると
小さいビンを出して、「この薬を出そうと思っていたがこの薬は眼底の出血を促進する可能性が有るので、こちらを出すことにする」と言う。
そんなことをいう必要がなぜあるのか->専門家であることを強調して、恐怖を植え付けるためであろう。
自分おビジネスでは、僕もよく使う手である。


僕の住んでいるエリアでは、優秀だと評判の医者である。
85歳の母も、75歳の叔父も手術を受けている。病院は、順番待ちの患者でいっぱいである、看護婦も偉そうである。
病院っていうのは違うものである。

しかし、憂鬱である。






2015年4月8日のブログには、こんなことを書いている。

眼底の検査をしたら、第二ステージでレーザーで焼かなければ失明すると言われる。
レーザで焼かなければ失明すると言われて、ついに糖尿病に追いつかれたのかという感慨に浸る(笑)。
ここ1年、かなりのプレッシャーで食事が悪くなっていたことを思い、さもありなんと思う。
目は血管を移す鏡だから、体全体の血管が同じ状態だろうなと思う。
このまま、医師の言うとおりに投薬をして、眼底をレーザーで焼いて生きるか、自分の信念で生きるかである。
糖尿病は、その原因が毎日の食生活にあり。改めなければ同じことの繰り返しなのである。
そして老化が早く到来して、くり返し、眼底を焼き続け、透析がはじまり、壊疽や動脈硬化が続く。
死ぬ前の10年がとても辛い人生となる病気である。


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インスリン受容体の謎

インシュリン受容体についてはまだ謎だらけのようだ。
このページが綺麗だ、ビックリなのである。

一回受容体と結合したインスリンはもう結合しないのだろうか?
何らかのマーカーの存在が有るのだろうか?

そのまま、分解されるのだろうか?

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「足のケア」 ここ数日、どうもおかしい。

足のケアに関しては以前にも書いている。
6月8月である。

やはり気になるものである。

右足の詰めの奥が黒くなった。



数日前にプールでウオーキングしてからである。



左足のスネがカサビタになった。

なぜか突然カサブタになるのである。
壊疽であろうか?不安である。



ここだけでなく、最近体中に小さいカサビタが見受けられる。
これは肩である。

定期的に、カサビタが出てくる感じがする。



何とも不気味である。


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血糖値の測定をはじめてから201日1982回である。

もうすぐ測定も2000回だなあと思っている。


体の何箇所かで刺すような痛みが感じられる。常にではないのだが、時折、感じる。
この日も書いていた。
右の脇腹、右の背中の肋骨の間、右の足の指の付け根


足のしびれは毎日違う、軽かったり強く感じたり、様々である。
立っているときは感じないが、横になるとビンビンしびれる。
仰向けと、横向きで違う、この感覚を伝えるのは、なかなか難しい。
一日立った後なので起こるのだろうか。
起きた時の痺れ方は明らかに軽くなっている。




目は良いのか悪いのかわからない。
又眼底を検査しなければならない。





血糖値は、ここしばらく低い数字が続いたので、計器の精度を疑問に思い、同じ血で図ってみた。
随分違うのである。

以前にも同じ様な実験をした。その時はアメリカから送られてきたので比較したのである。

その後2台買って合計3台を持っている。
同じ血で図ってもばらつきがある。
血糖値の測定はそういうものだと思わないといけない。
チップ(センサー)に血を付ける角度の違いなんかでも差は出るようである。
大事なことは、生活のイベント前後に測り、そのイベントの血糖値への影響を理解して、生活を変えていくことである。

テルモに、測定器の信頼性を検査する試薬があったので購入した。
そしたらなんと、異なった機種用であった。
3台の数字が一致したので(3台同時に壊れることはないということで)、これでいいことにした。
しかし、数値幅が80-120のあいだならいいそうなのだが、(シビアに低血糖を測るには)これって幅が広すぎないかい。

つまり、A1cとの関連を日常的に測っている数字との間で見ていくということなのだろうなあ。
A1cのエビデンスって何をもって考えられたのだろうか?

2013年にA1cの治療の目標を7.0にしているのが面白い。
正常値は6.3ぐらいなのだろうか。
やはりアコード試験なんかの結果を受けているのだろうか。


酒が悪いような気がするので、飲んだ所まで線を引いて日付を書くことにした。
多くの場合、ウインスキーに入る前にビールを500〜1000ml飲んでいる。
確かに飲むのを辞めた翌日はいい感じである。






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娘と料理を作る。料理を継続するという事。

来年高校3年になる娘と夕食を一緒に作っている。
今日は冊のイナダがあったので、刺身包丁の使い方を教えた。

彼女が「再来年の4月にはいなくなるんだ」と言った。

『そうなんだよ、社会と向き合って君はすべての問題を自分のものとして解決していかねばならないのだよ』と思った。

それこそが、アドラーの言うところの「自立した人間」なのである。

子供の自立と同じくらい親の自立も難しい。依存は双方向に向かうのだから。



しかし、アドラーの頭の中になぜ、そのような考え方が出てきたのかという事を考えていなかった。「独立した人間」という概念はヨーロッパ近代のものだということを考えると、アドラーがどんな時代に生きていたのかもう一度読みなおしてみよう。



料理は、具体的な技術の塊だから、言葉で教えるような訳にはいかないのである。
実際に作って、継続できなければ意味が無い。

そう考えると『料理』と言うのは総合的な視点から考えねばならない。

また、様々な学問分野が隣接してくるのである。
まさに『食事学』と呼ぶべきものなのである。


1990年台に考えた食事学マップである。
ダイエットで痩せたり戻ったりを繰り返しながら、していた頃である。
驚くことに、今の考え方の原型がある。

また麻菜との料理の経験は、知識が0の人間に料理を継続させるためには、何を伝えなければならないかというプラクテスでもある。
自分自身がなぜそんな切り方をするか、その順番なのか、論理的に説明しなければならない。実に勉強になる。
教えるということは教えられることでもある。




ここ2ヶ月ほどで一緒に作った料理を記録しておかないといけないと思い書くことにした。。


刺し身の捌き方 包丁の持ち方
野菜炒め 肉と野菜の2枚フライパン
煮込みハンバーグ ハンバーグの作り方
カレー シチューの作り方
ミートソース 玉ねぎみじん切り、パスタのゆで方
ペンネトマトソース 玉ねぎみじん切り


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