幸運な病のレシピ( 1991 )昼:鶏唐揚、カボチャ天、ホタテフライ、シャービン揚

【 2020/4/4の食事 】

レシピ本では、材料が揃ったところからの手順しか書かれていない。
僕が一番苦労したのは、家族が食べてくれないことだった。

食事を作っても、文句をつけられ食べてもらえないのである。
考えてみれば、料理を作り食卓を囲むというの「価値の共有」が必要だ。
子供向けのキャラ弁とか旦那向けのやたら豪華な手の混んだご馳走、意味しているものを語ることは難しい。
食事が、「家族関係のディール」の一部となっているのだ。これはかなり難しい関係性である。

僕が子供の弁当を作っていた時期に、なんだかんだと理屈をつけて僕の弁当を食べなくなり、自分でサンドイッチを作ったりけっこう大変な時期があった。

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反抗期と言う傲慢な表現は嫌いだ。誰でも自分を強制する存在には腹が立つものだ。

食事を作り食べることを強制するのは大変なことだ。
家族というのは共に守り合うシェルターでありながら、欲望を閉じ込める檻でもあるのだ。

ドラマや小説で描かれている家族の食事を考えるとわかる。
「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」いずれも食卓で家族の会議が行われる、。価値の共有の場ではないか。
家族ゲームという映画では家族が横一列で食事をとる。
市民ケーン」では、わずか数分の食事のシーンのモンタージュで妻と夫の関係の変遷が表現される。

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この問題には答えなどない。

しかし、家族がバラバラに(自分の好きな)食事(商品としての食事)をとる。
検査値を正常にするために多くの薬を飲み、繰り返し手術を受けて、施設や病院で死ぬと言うのはあまり嬉しくない。






「商品化された食事」「政治的に正しい皿の上の栄養学」が『ガンや、認知症、心疾患に循環器、壊疽に肺炎、透析に眼底網膜症、骨阻喪症にリュウマチ痛風膠原病に難病指定、薬で下がる検査値の異常(糖尿痛颶風高血圧に高脂血症)』を生んでいる。
「病(と医者が呼んでいる災厄)」は食事の反映でしかない。

炭水化物は毒ではない、誰もが抗えないほどに魅力的すぎる。食卓は、炭水化物が中心になり、緩慢で直接的な因果関係の見えない欠乏症を生む。
食事作りは面倒だ、私達が作れなくなったのには理由がある。そして僕は毎日素材から食事を作る。



今日の食事が死に方を決める、明日の食事が生き方を決める。
『炭水化物がいらない食卓』はこちら『幸運な病のレシピ 宣言』は[http://d.hatena.ne.jp/masay