幸運な病のレシピ( 1988 )朝:コウイカ網焼き、イワシ焼きびたし、鱒、鳥モモ網焼き、ミートソース、味噌汁、マユのご飯
【 2020/4/3の食事 】
昼夜の食事の組み立ては朝決まる。
ひき肉は足が速い、餃子用に買ってきた500gのひき肉の半分は翌日にミートソースになる。豆の缶詰があればなお良い。何度も繰り返していくと厨房と家族に合わせた味と手順が決まってくる。
ギスは足が早く傷んでいた。魚を焼いて味噌汁を作り朝のお勤めは終わる。
少し後でご飯をいただく。
今日も元気に生きていこう。
味の好き嫌いは大事な個性なのだ。
昨日は、マユの食べ方があまりガツガツしていなかった。今日は一点ガンガン食べる。残さず食え一辺倒の「政治的に正しい栄養学」は傲慢で一人ひとりの個性を殺す。
料理を作る時は食べる人の顔を想いながら作る。
「作るヒト、食べるヒト、食材を生産する人」が同じ環境に居ることを「身土不二(地産地消)」と明治期の食事哲学は言った。
僕は食物連鎖のレンジで生きることだと持っている。
とは言っても冷凍のピザは旨い。忙しい時などは手軽に食べたいことも多い。
商品化された食事は食べ残されないために誰もが旨いと感じる炭水化物が中心になる。
炭水化物(=ブドウ糖)が毒なわけではない。商品化された食事の売れ残りはメーカーにもスーパーやコンビニにとって致命傷となる。
8時から半額になるスーパーの弁当ー惣菜売り場は一つ残さず売れる。
調理という延長された自己により、食物連鎖から離れた「ヒト」は「過食・拒食・依存」に苦しむのだ。
そして「検査値の異常」が合併症の原因と考える現代の栄養学は、「政治的に正しい食材が並んだ食卓」を残さず食べろという。給食ハラスメントの問題奥が深く解決が見えない。
なにせ、忙しく自分に合った食事を作ることの出来ない私達は売られている食事に合わせて検査値を斎場にするために薬を飲むのだ。
しかし、年取れば何種類ものクスリを飲みながら、繰り返し手術を受けて、やがて「輸液・経管・胃瘻」の辛い時間を過ごして施設や病院で孤独に死ぬのだ。
統計的に見ればそうなる。
僕はそんな人生の終わりはまっぴらだ。
父の霊前飯である。晩に美味しく僕がいただく。
「商品化された食事」「政治的に正しい皿の上の栄養学」が『ガンや、認知症、心疾患に循環器、壊疽に肺炎、透析に眼底網膜症、骨阻喪症にリュウマチ痛風膠原病に難病指定、薬で下がる検査値の異常(糖尿痛颶風高血圧に高脂血症)』を生んでいる。
「病(と医者が呼んでいる災厄)」は食事の反映でしかない。
炭水化物は毒ではない、誰もが抗えないほどに魅力的すぎる。食卓は、炭水化物が中心になり、緩慢で直接的な因果関係の見えない欠乏症を生む。
食事作りは面倒だ、私達が作れなくなったのには理由がある。そして僕は毎日素材から食事を作る。
今日の食事が死に方を決める、明日の食事が生き方を決める。
『炭水化物がいらない食卓』はこちら『幸運な病のレシピ 宣言』は[http://d.hatena.ne.jp/masay