娘の進路指導に行ってきた。(2)

こちらの続き......


言語で伝達可能な「知識」を伝える事は「銀行型学習」という。
そして、(学校)教育は生徒がいかに優秀な「知識のれ物」であるかの順位付けに終始する。
何のための順位かといえば、『既得権益の分配』の順位付けであり、スムーズに権益の収奪を行うための順位付である。

従順な奴隷と、奴隷を管理する奴隷を作るための社会的な仕掛けである。




僕は、娘が生まれたころ鉄工所で労働争議の先頭に立ってストライキを指導した。
組合員の多くは経営者を擁護して、僕は孤立した。

しかし、結局は退職金を1円も上乗せしないという擬似親会社(100%の売上元であるが親子関係はない。)は結局1億3千万円を僕らに支払うことになった。

web版はこちらを、pdf版はこちら->life_2.pdf 直
母によく言われたものだ。
お前は、どの会社に行っても納得しないで飛び出してしまうと。


この労働争議は、僕らの工場の従業員にとっては福音であったが、親会社にすれば大きな損失であった。
現実のリソースの分配は深刻な対立を生む。

経営者は倒産後の雇用を約束することで組合員を分断させる。
当たり前の戦略である。勝てなかったのはその事を理解していなかったからである。
彼らがずるいのではなく、私達が知らなすぎたのである。


組合運動などというものは「人権や平等」などという物が裏付けているわけではない。
労働三権が法体系の中に埋め込まれる過程は、「認めた上での社会全体の利益」と「認めない場合の損失」の比較の上で合意されたものでしか無い。
アメリカでの労働権の確立の過程において、日本での閉山争議の過程において、多くの地が流されて確立されたことを忘れてはならない。




「誰かが得て、誰かが失う」不公平でくそったれなこの社会に憤るとき、「それでいいじゃないか」と訳知り顔で話す輩がいる。

自分は賢いと信じて、世の中の仕組みを分かっているという顔をした輩である。

権威に「おもねり」、権威を「かさにきる」事で自分の空っぽさを隠そうとする奴らである。

昔は大嫌いだったが、最近は『自分の中のその姿を見つけ』憂鬱になる事も多い。


生命の本質は、『「保守・伝統・権威」を守ること』にある。

社会が安定するためには、権威を養護する人間が必要である。

同時に、社会が変わっていくためには権威を信じない人間が必要である。

常に変わることで、体を維持する仕組みのようである。


社会が変わっていくためには、新しいテクノロジーが権威を覆すことが必要なのだ。

と同時に「人はどこまでも堕ち続けることはできない」と言う「安吾の法則(洞察)」がある。
忘れてはいけない、どんな革新的な思想にも「守ろうとする価値」があり、その価値が現実のリソースに負うものである限り対立が有り、その争いは絶える事はない。


革新的テクノロジーは、次に出てくるテクノロジーによって、「保守的なテクノロジー」となるのである。







人は信じていることしか伝えられない。馬鹿であることを諦めない僕は、社会が変えられると信じている。




...... getting your ass kicked by the facts, and giving up, are two different things.
.......事実に打ちのめされるのと、諦めるのは違うことなのだ。


娘に教えられた「大変人気のアニメ」の言葉。人気なのも分かる、自分たちがこうなりたいと思うことなのである。
そして、子供達はそれが困難な事も分かっているのだ。








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出来る我慢と出来ない我慢

今回のダイエット(生活のあり方)は今のところ続いている。

僕(1960年生まれ、55歳)の糖尿病発病からの25年間のダイエット人生を振り返ると、上手く続いたものとダメだったものがある。

継続可能なダイエットってなんだろうか?
いつも考えている。


「マクロビオテック」「糖質制限」のような、食事運動がある意味「宗教的な使命感」を帯びているのは良く分かる。

宗教的なと言うのは、『経典、ドグマ(共通の価値)、儀式」を持つということっである。
セクト争い、分派、が起きて、商業的な成功があったりすると、内ゲバ、ドロドロの本家争い、なんでもありである。

重要な事は『権威』がそこに発生して、コミュニティが存在するということである。
その権威に依存することが心を安らがせることは事実である。





今のダイエットが継続しているのは、「現在の権威的な医学会の糖尿病の治療」に対して、自分の価値を証明しようとしているからだと思う。

大変強い使命感がそこには生まれるのである。
僕は「どんな権威」をも信じれないから、その意味では、僕は、開祖であり創始者なのである(笑)。


『使命感』は脳に強い快感を与える。

中毒に対向するためには、それより強い快感を与えなければならないのである。



炭水化物中毒、タバコ中毒、いずれも、肉体に強い満足を与える。
しかい、それ以上の満足を得ることで継続が可能なのである。



糖尿病治療から逃避する人々を「意志が弱い」などと言ってはならない。
誰も、自分を貶められるために医師の前に座ったりしない。

糖尿病の治療は、「権威者である医師」が「患者」をひざまずける過程である。
それは、医療全体に言えるのだが。


学校の教育と同じである。
自分のことを『知識の入れ物』であり、奴隷になるための「銀行型学習」なのか、何かを出来るようになる「メタセノイア」型の学習なのかの差でもある。

患者は、病気の入れ物ではなく、自分の一部に「病」と言う名の問題を抱えている生きた人間なのである。
その問題は患者の一部であり、決して簡単に否定するべきものでも、追い出す対象でもない。

病と共に生きることを選択するべきである。
人はいずれ「死に至る病 terminal case. 」を生きているのである。



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糖質0麺のトマトソースあえ+ハンバーグ

夜半にふと思い立って、トマトソースを作った。


この日は朝から血糖値が高かったので11時過ぎまで何も食べないで、所用から帰ってきてから食事した。
全く上がらなかったのが嬉しいが、高止まりであった。


ニンニクを弱火で煮るように炒める。

玉ねぎ、ピーンマン、キノコを刻む。
玉ねぎの糖質は (7.2g/100g)であるので全体で10g程度だろうか。


刻んだ野菜を炒め、ソフリットにする。
セロリや香味野菜が入るといいのだが、冷蔵庫にはなかった。


裏ごししたトマト缶を加えて塩味を入れる。


挽き肉が多くあったので、ハンバーグを作って、糖質0麺と合わせたらいいかと思い食べた。


家族はパスタにかけて食べる。

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「足のケア」 合併症の問題

合併症の症状として、足の指がしびれるというのはよく聞く、

実際、僕自信もずいぶん、ひどかったことを、今なら分かる。



どうも、「足の指のしびれ・無感覚」「こもろがえり」「片足立ちができない」「布団肩立ち上がるとき何かにつかまる」というような一連の行動が、現象と思う。




最近、布団から立ち上がるときに、すんなりと立ち上がれるようになったのである。
横になった時に、足の指全体が捕まえられていたような感覚があったのだが、弱くなった。
7月の半ばまでは横になるとじんじんしていたのだが、気がつけば気にならないレベルである。

ズボンを履くときに壁に捕まっていたのだが、その必要がなくなった。

まだ時折刺すような痛みがあるが、バーシュタイン博士の著作によれば「治る過程」に起こるとのことである。

これは良いニュースなのだろうか、悪いニュースなのだろうか。





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娘の進路指導に行ってきた。(1)

こちらに続く......



娘の進路指導ということで、学校で高校の先生と話をした。
僕の子供の進路に関する考え方を伝えたほうがいいと思ったので、文書にまとめて渡した。


アップしたので見て頂戴->life_1.pdf 直


君たちの直面していく社会ってやつは、猛烈にクソッタレで、憂鬱で、不公平に満ちているものなのだということを忘れないでほしい。

『学び続けなければ、このクソッタレな世界をこじ開けることは出来ない。』
それを覚えていてもらいたい。平等だの人権だのという言葉があるのは、それが実際に存在しないからなんだ。

けど、私達は、存在しない物を信じることが出来る事も事実なんだ。

君たちも、信じることが出来るといいなと思う。


20分ほど様々な話したのだ。

こんなもの持ってきた親を見て、先生も面食らっただろう(笑)。



考えてみれば、学校の先生というのも大変だなあ。


1)『親の望みに従った指導』をしなければならない(推測であるが)
いくら自分が生徒に対してこうした方がいいと思っても、そんなこと下手に言ったら、親は怒り出す。
『料理が好きだから、大学やらないで、料理人の修行させた方がいい』などというわけにはイカンだろう。
時に、親に対しては本人の言葉の代弁者になり、子供に対しては親の意向を反映した学校選びをしたりする。



2)自分自身の体験にないことを教えなければならない。
普通のこどもが、大学4年間を過ごした後で、どんな人生を送るのかということを先生は知らない。
もちろん、高尾共が教師の道を歩めば別だが.......



3)多くの場合、失敗した体験を伝えることが出来ない。
教師というのは考えてみれば、『合格続き』の人生である。
まあ本人にしてみれば十分挫折していると思うだろうが...................
そういう人もいるだろうが、大生の場合そうではあるまい。

また、失敗を伝えることは、文部省のマニュアルに反するのではないだろうか



大学の進学率を上げなければならない立場なのは良く分かる。
自分の属している高校の『格付け』が重要なのも良く分かる。

しかし、その『格付け』というのが何に準拠しているかである。
そして、市民にどう捉えられているかである。

大学への進学が至上の価値である事自身が問題なのであろう。

「百年しばた」で僕が問題としているのは、そんな「市民の意識」である。

教師の姿は、市民の意識の鏡像であるに過ぎない。



ところで、『成功した子育て』ってあるのだろうか?
「教育の成功」ってあるのだろうか?



憂鬱である。


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