厨房の研究 (1) 食事作りってなんだろう?「時間がないから食事を作らない」「あんた暇だね」といつも言われる(思われる)のはなぜか?

2015年の失明宣告から始まった僕の食事作りの研究はひとつ結論が出てきた。
「調理」するという作業は、実にインテリジェンスが高く、工程も複雑で、実作業上のスキルも必要だし、常に新しい状況に対しての決断の連続である。大変な作業なのだ。



しかし、私たちは、「食事を作ること」を単価の安い単純な「バカでもできる」作業だと思っている(認識している)のだ。
家庭で食事を作るのは、「能力のないもの」のやることだと思っている。
女子供(?)で十分できる仕事と考えている。

僕が毎日食事を作っているというと、蔑まされる。お前は暇で良いなと言われる。
自分は忙しくて時間がないと得意満面である。
そんなことしていないで、会社潰してどこかに働きに行けと忠告される。




これはいつから始まったことなのだろうか?
そもそも「能力」という定義はなんなんだろうか?

「老人、子供、病人、犯罪者、障害者、女性」能力がないと排除される。
2型糖尿病は一種の身体障害である。そして薬の存在する病気である。
治療を受ければ、病人ではないと認定される。治療を受けないと、「家族がかわいそうだ」と言われる。

そして多くの現代人は「生活習慣病」と呼ばれる「災厄」から逃れようと必死である。

かつて私たちを縛り、守ってきた「家族というシェルタ」を失ったために、「災厄」と呼ばれる現象はあると感じている。


母の晩年に僕を本当に気遣ってくれた。
忘れることはできない。


老人は醜い、障害者は気持ち悪い、しかし、自分もいつかそうなると感じることで、共に生きようと思えるのだ。





マルクス経済学では家庭での「家事洗濯、食事作り」を「再生産労働」と定義している。
その後の「女性解放・ジェンダー論、シャドウワークという言葉」を通じて良いように低評価されていくのである。
これは、安い労働力を必要としていた資本家からは大好評だったろう。

「家庭というシェルター」が阻んでいた「食事の商品化」を推し進めるにも最適であった。

家庭が企業であった時代は、それぞれの家庭に収益が集まっていたが、それはグローバル企業へと吸い上げられたのである。
かつて、経営者と労働者の給料格差は今ほど大きくはなかった。
かつて、生活の場であり、教育の場であり、生産の場であった「家庭というシェルター」は、「労働者奴隷が骨休めする場所」になってしまった。


労働力を時間売りで資本家に売るという「自由主義労働力市場(=奴隷市場)」は家庭をガソリンスタンドに変えたのである。
炭水化物という「コストの安いガソリン」がチャージされる。

家族が共に生きるというシェルターの役割は、外注されたのである。
そして、教育は「学校」に外注され。長い時間をかけて選別され、奴隷は再生産される。





少子化移民問題は同根である。
そういう指摘は時折見られる。


しかし、子育ては「奴隷の再生産」だという指摘はあまりない。
子供は本来「奴隷」だったのだ。
コミュニティの中で下っ端のやることをやらせていた。
企業の新入社員教育である。


家庭という企業で、ひとつひとつ仕事を覚えるように手伝いさせられたものである。
しかし、子供は大学に行き帰ってこない。
企業が新入社員にとってブラックなのは当たり前だ、
そこに座っているだけで給料がもらえるわけがない。
本来、稼げるようにならなければ給料はもらえない。
家庭という企業はブラックの典型であったのだ。
しかし、見捨てることはなかった。
やがて自分を助けてもらうから、それなりの企業として家庭は存在し続けれる必要があった。

しかし、グローバル化はすべてを破壊した。
教育や介護を「家庭という企業」から分離して、その役割は行政が担うことになったが、すべての人が不幸になっている。





コミュニティの僕の定義は
1:利益を共通とする人の集団であること
2:提供する労力と受け取り利益が存在すること

そして、労力と利益のアンバランスを是正するパワーの存在
この是正するパワーというのは「ハンディキャップ」に対する優しさと僕は考えている。
そして、辛い思いをしている人に対しての「優しさ」を信じることである。

今の社会は、弱者を隠して、医学がハンディキャップに対する是正であると考えることで成り立っている。
かつては障害者や病人を助けいたわり、何かの仕事を見つけて共に生るのが当たり前だった。









私たちが恐怖に思ってい生活習慣病は食事にこそ問題がある。

多くの医者や栄養士もそう言っている。
そして研究に多額の公金を使いながら現状は解決しない。
対策がうまくいかないために、理由を探しては、新たなる敵を見つけ出す。

これだけ医学の研究者や医師が指導しながらまったく改善されないのである。



医学は人の幸せに結びついていない。

それは、社会のあり方とも繋がっている。


そもそも科学とは「人の幸せ」のためにあるべきである。
「自分だけの幸せ」ではない。「人」全体の幸せだ。
「老人、子供、病人、犯罪者、障害者、女性」を隠すことで「能力」のある人間だけが楽しく暮らそうとする社会は間違えている。
なぜならば、自分もいつか「能力を失うから」だ。







今の「商品化された食事」は「(誰もが抗えない)炭水化物」が中心にある。

私というコロニーにとって重要な意味を持つ「生命」が受け取れないのである。

この考え方は、宗教である。
エビデンスも、アウトカムも見つけることはできない。

しかし、工場で作られた同じ規格の製品ではないのだ。
私たちの一人一人の環境は違う。
内部の代謝系も違う。
2つとして同じ生命はいない。

では、統計に何の意味があるのだるか?




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