「一人で抱え込まないで」という凶器(2) 専門家に任せなさい。Nature abhors a vacuum.

「一人で抱えこまないで」という言葉の凶悪性について考えてみる。


決して個人の問題ではない。
社会の変化が生む問題が、「個人の問題のような顔」をして繰り返し現れる。
個人を責めても何も解決はしない。
原因は構造的なものであり、個人は単に運が悪いだけである。

父はこの写真位はいない。祖父が分家する前の記念写真

かつては権威に溢れ、家制度が個人という表現で現れていた。
コミュニティでは同じプロトコルに従って、個人は生きて、人生は保証されていた。



下段右から2番めが父、戦争が進んでいた頃の記念写真

分家した父の実家は色々と商売をするが、なかなか上手く行かない。
長男は事故で死んで、妻は次男と結婚して家督が守られる。
家の維持のために個人は生きていた。

1994年父は66歳である。父の一番上の姉の100歳記念の宴の写真、父と10最年上の兄しか生きていない。

詳しい人と言うのは、多くの場合、コミュニティにおいて「そのこと」に経験のある人を意味していた。
私たちは、父母や祖父母に尋ねていた、一緒に家庭で子供を育て、食事を作り、共に行き、順に死んでいった。
そんなコミュニテイは失われた。そして個人が従うべき権威の空白を作った。



自然は真空を嫌う。Nature abhors a vacuum.

その権威の空白に、行政が忍び込むのである。
「大学を出た人」とか、「資格のある人」という意味になってしまった。

社会全体が、「権威信頼病」とでも言うべき病に冒されているのである。


アドバイスに従って、生きた時、「アドバイスが間違っていたらどうしたらいいのだろう病」といってもいい。

子供の教育のことで幾度も妻と喧嘩になった。
僕の考え方と学校の教師の指導に違いがある場合である。
あなたの言うとおりにして子供が負け組になったらどうするのと言われる。
それはもう深刻な諍いであった。
今でもよく思い出す。
子どもたちが、自分の事で僕らが喧嘩(注1)していることを察して気遣ってくれたことを。

「官僚の無誤謬」と言う言葉を僕は好んで使う。

行政は税金を使う。
その条件は「政治的に正しい」ことである。
政治的な正しさとは、官僚自身が作ったマニュアルに従っているかどうかということである。
決して、一人一人の人生にマッチしたと言う意味ではない。



人生はマニュアル通りではない。
全員が、一流大学を出て高級官僚になって何度も天下りをして退職金を山ほどもらい、認知症になって施設に入れられて子どもたちが遺産争いをするわけではない。


偏差値は、人生の尺度にはならない。



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注1 : 自分の事で僕らが喧嘩
離婚しないでよかったと思う。
多くの家庭では、子供に代理戦争をさせる。
兄弟や姉妹が父似だとか母に似ているとか言われながら大きくなるのだ。

僕は、それは言わないように気をつけたものだ。
誰でも誰かの影響を受けないで生きることは出来ない。
同時に誰かに似ていると言われることは癪に障る。
ましてや、自分の内面を何も知らない人間に言われることは我慢ならない。

自分が何かの類型の一つだと言われることは何故不愉快なのだろうか?
時に考える。