家族の旅立ち、僕の旅立ち。

母は、小学校卒業が最終学歴だった。
母の母が肋骨カリウス(結核)になり、家事を行なうのが困難になり、10歳年の離れた弟の面倒を見なければならなかったからだ。

学校に行きたいと思いながら、行けなかったのである。

その後、結婚する事になろうとするが、最後の段階で相手の家の人が母の学歴を知る。
「小学校卒業では結婚させられない」と断られるたそうだ。
随分辛い体験だったのだろう、この話は亡くなる数年前に初めて聞いた(本人からはである、薄々は聞いたことが有った)。
相手はまだ生きているそうだった。
遠い昔の話だと片付けるのは簡単だろうが、母の中では、一生忘れられないことだった。
辛かったんだろうなあ。
父も知っていたと思う。けど「オラ忘れた」というだろうなあ(笑)。

終戦で、身分制度は消えたはずなのに、学歴がそれに取って代わったのである。

母の学歴に対する怨念が、僕を3年も浪人させてくれた。
学校さえ出れば、いい暮らしが出来ると言う幻想が満ち溢れていた時代である。


亡くなる5年くらい前から、アフファベットを習いたいと言ったので、僕は書き取り帳を買ってきた。
アルファベットは読めるようになったのだが、単語を読むこところまではいけなかった。
これは、スペルと発音が全くデタラメな対応をしている英語が悪い。

何よりも素晴らしいと思うのは一生学び続けようとした「心」である。
ボケてきて、字もまともに書けなくなってきていたが、心はしっかりしていた。
最後まで、僕を心配してくれていた。

料理を作って持っていくと「どこで習ったんだね」と言われる。
「あい大学」だよというと、「あはは」と口を開けて笑う。
本当だよ、かあさん、僕はあなたに習ったことを忘れない。
33歳で、新潟に帰った時は、人生で最大のハズレくじだと思った。
鉄工所に勤めていた時は、毎日東京に帰ろうと思いながら車を走らせた。
けど、母から「人生に向き合うこと」を学んだ。








18になる娘を大学にいかせることは、当然のことだった。
幸いなことに、妻も同じ意見だった。
自営業は辛い、波があり、飛躍するための資金が必要になることも多い。
妻は賢くて、勤勉だ。OL時代から将来を考えて貯蓄し、子供の学費はどんなにつらい時期が有っても仕舞っておいた。
「唯一の誤算は、結婚相手だけだったなあ」と僕は言うが、笑って「そんなことはない」と言ってくれる。
「一年先がわからない人生はジェットコースターの様だ」と笑う。

そして、娘は今年大学に入り、遠い土地で一人暮らしをする。
昨日から一緒に行って、二人で引越しをしている。
父は見送ってくれた。結婚して子供の顔を見るまでは元気でいるそうだ。




2015年の糖尿病と向き合って来た体験を高く評価してくれた方がいて、本を出すことになった。
2016年8月から本格的に書き出して、ようやく出版にたどり着いた。
医療関係の本を出している出版社だが、僕の言葉を実に真摯に受け止めてもらえ、「編集長・スタッフ」と二人三脚で歩いた長い道のりだった。
何度も、妻と話し合い、19年間の結婚生活に、糖尿病がどんな影を落としていたかを考えた。
当然、妻が共著者だ。



大学に行っていた頃から、いつか本を出したいと思っていた。
母が亡くなり、僕の体験を高く評価する人と出会い、素晴らしい編集スタッフと出会い、この本はできた。

幸運な病 -糖尿病とおつきあい-
時間とお金のある方は、ちと見てみてちょうだい。
4月7日からアマゾンでも、書店でも買える。

これから、僕の病をきっかけに結びついた人たちと面白いことが始まる。

講演会、講習会、語りの会、コンサルティング、プログラムの開発、様々な企画が一気に進みだしている。
この旅の目的地は地図には書いていない。本当に大事なものは、そういうものだ。
僕の旅立ちである。



この本を、母に見せたかった。

幸運な病 糖尿病とおつきあい

幸運な病 糖尿病とおつきあい

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