『後片付け達人』への道。年をとるということ、未来を見ることの出来ない馬鹿な役人の考えている老人政策、介護政策。

最近、後片付けを担当している。
と言うか、食事作りと後片付けを一体のものとして行う必要性を感じている。

そこで、どうしたら効率的に食事作りー>後片付けを行えるかを組み立て始めている。

継続可能な生活のパターンとして食事作りを行うのだ。
一番基本的なところには『糖尿病の食事学』『父母の食事作り』がある。
そして、これは30年後の僕の生活ともつながっている。

無論、45歳になった子供が僕の面倒を見てくれることが可能な仕事についているかはわからないのであるが.......



もはや、父も母も『短期的な記憶』の連鎖を持っていない。
さっき行ったことを忘れる。
新しいことを覚えられない。

認知症(税金を使うために必要な資格)と呼ばれる範疇に入るだろう。

無論、施設に入るには、世話をする家族が傍にいるので無理であるが。




僕の廻りには『施設に入れて治療』しろなどという事をいう輩がいる。
アルツハイマー症のような場合以外はできるだけの事をする努力は大事であろう。

『お前は、介護の大変さをわからないから『自分は親を施設には入れない』などという』などと平気で言うのである。
そういう輩には本気で腹が立つ。そんなに自分の介護体験が偉いのだろうか(笑)。
僕は以前読んだ『直さなくていい認知症』と言う本が忘れられない。

確かに、自分の生活を守りながら親の生活を助けるのは難しい場合もあるだろう。


こんな時は、クレヨンしんちゃんのお母さんの言葉を思い出す。
『自分がされたくないことは、しない。』

よく晴れた日、庭を眺めている母の姿を見ると人生の意味が分かったような気がする。



現在進められている国の政策は間違えている。
現在の高齢者の年金を介護施設の経営者に回そうとしている。

この浅はかな政策はすぐに破綻する。


地方では、介護施設の経営が、あたかも成長産業の様にもてはやされているが、すでに利用者の数が施設に対して割れている。

先日の世論調査で地方に移住して施設に入るべきだという意見が60%を超えたという。
大笑いである、若者よ、そんな未来が君たちの望みなのか?


僕はまっぴらだ。







一番大事な条件は、健康で身の回りの事を自分でできるかというところである。
『買い物ー>食事作り』は無理であるが、それ以外ができれば、ある程度の自立した生活は可能なのである。


父母を見ていると、「トイレ」「風呂」「配膳(炊飯)」「皿洗い」「布団」「時間つぶし」を自分でできるのである。
そして、それぞれの担当は、元気な頃から行われていたとおりなのである。

「トイレ:各自」
「風呂:二人で入る」
「配膳(炊飯);母」
「皿洗い:父」
「布団:父」
「時間つぶし;父_睡眠・散歩、母_庭眺め・日記書き」



僕もこれができるようになる生活を目標とする。


「誰かに助けられている老後の生活」は「今の生活」と連続を持っているのである。

体が動かなくなったり、決定的な異変が起こった後では、新しい生活になれなければならない。
残念ながら、老人にそれは無理なのである。

今の僕でもきついのだから。

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