専門家とは何か? 権威の誕生と失墜のプロセスの研究。
オギャアと生まれて今に至るまで、ヒトは誰かに頼って生きている。
そうしなければ生きていけないのであるから当たり前の事である。
誰かに頼りながら生きていくことは成長に時間のかかる「ヒト」にとっての宿命である。
世界は広い、そして個人の知見は狭い。
すべてを知る事はできない。世界の様々な事象に対しての『スペシャリスト』の誕生である。
同時に、どこかで、誰かに頼るということを自分で選択しなければならないことも当たり前でありながら成しにくいことの一つである。スペシャリストの選択を個人で行うのである。
ヒトの持つ保守性も、同じである。今のルールを変えないというのは重要な特性である。新しいことをした時にどんなことが起こるかの恐怖の強さは並大抵のものではない。
僕は、糖尿病の『素人の考えた治療方法』を通じて、『そんな権威の言説に惑わされないこと』こそが重要であることを知った。
糖尿病を自分自身の人生の問題として向き合うことは、孤独な作業である。
皮膚の内側で生きることの孤独は耐え難いものである。
そして、その孤独こそが『文学のふるさと』なのである。
やはり、安吾は偉大である。
自分自身が自分の人生のスペシャリストになるのである。
宗教の創始者は、人生のスペシャリストでありその権威に依存することで『天国への門』が保証される。
親、兄弟姉妹、その関係性は、宗教などに比較してミクロのレベルでの相互の依存関係である。
大学の教授がこう言っているとか、一番詳しい人がこう言っていると言う言説に従い、人生の道を決める。
それもいいだろう。
多くの社会科学において、ミクロ分析(ヒトをその対象とした場合)不確定要素が大きくなっていく。
個別の依存関係を分析の中に入れていない(というよりも入れられない)からだ。
ああ、この項目は続く他ないようである。
しかし、安吾って凄いなあ。
読み込んでしまった。
青空文庫に感謝である。
青空文庫作成ファイル:
「堕落論」新潮文庫、新潮社 より、『文学のふるさと』最後の一節を引用
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それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身うつしみは、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一ゆいいつの救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。
アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……
だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。
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