僕が医師だったら糖尿病の患者にどんなことを聞くだろうか?(2)

詐欺時で嘘つきのフロイトは、心理学を商売の種にするために、権威と学問の体系を作った。
その結果、医学としての『心理学』が出来上がり、患者を「無知な素人」、精神科医を「権威ある専門家」となったのである。
現在の医療の根底に流れる問題は1900年台に始まると思っている。


そんなフロイトと、袂を分けたアドラーは患者の中の力こそが「病を治癒させる」と考えた。
正確には、今の状態を嘆き悲しみ、未来を悪い方向にしか考えられないことが「病」なのだという。

アドラーは『病』と言う状態を嘆き悲しむのは「ヒト」だけだという。
確かに、もし『そうなっていなかったなら、いいのに』と思うのはおかしなことである。
『今』は取り返しがつかないのである。

そして、自分しか自分を変えることは出来ないと断ずる。


フロイトは過去を分析することで、悪者を探す。
何が原因かを見つけ、焼き払うことで、様々な「病」を消しさろうとした。
しかし、人の心はそんなに簡単ではない。
単純な類型で処方箋を書けるようなものではない。



アドラー人格の形成期をどう過ごしたかを「プロフィール」と呼んでいる。
そしてそれはフロイトのように「患者の中の悪者」を探すためのものではなく、患者を理解するためのものである。

過去の自分を見つめなおすことで、今の自分を理解して、未来を選択する。

そのための「プロファイラー」なのだ。


僕がこのソフトを作る根底にはこの考え方がある。




今という病の時が出来上がったのはどんな生活を送ったからなのかを共有して、共に明日を目指す。
決して過去の自分の生活は『焼き払うべき悪魔』ではない。
世界に二つとない人生の道であり、これからの道のりを選択する為の大事な判断の元なのだ。

これこそが大事なことなのである。


そしてガープが言うように私たちはみな「死に至る病の患者(we are all terminal case. )」なのだ。




自分自身の今を作っている過去を見つめること、そして未来を生きること。
それが「血糖値プロファイラー」のコンセプトなのだ。



1)過去の人生について
過去は自分の今を形作るものであり、未来を映す鏡である。

さいころの食生活

1-1 生まれはどこか さいころの食生活を知る入り口。
1-1-2 生たところの名産は何か 生活習慣のコミュニティ的な影響、地域傾向を知る。
どんなものを食べた思い出があるか。
1-1-3-1 さいころの家庭の食事 食事は家族が作っていたか、よく外食したか。
1-1-3-2 さいころ親は忙しかったか 自分でラーメン作ったりして食べていたか。
1-2 親兄弟はいくつで何しているか  
1-3 付き合いのある親戚は多いか  
1-4 今ここにいるまでに引っ越しなどはしたか  


2)現在の自分と家族について






3)現在の食生活




3-2)嗜好品について(依存を生む物)

 
タバコ  
菓子  
フルーツ  

5)栄養学に対しての知識



6)生活を変えたいという意思







「............を変える ☓個の習慣」と言うシリーズがある。
まさに、アドラーに源流を発するものである。
糖尿病に関しての本も出ている。

僕自身は、何かに権威を求めることは潔しとしないのだが、いいことが書かれている。


この項は書きかけである。

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青汁実験始めました。糖尿病専門医(内科医)に失望した。

少し前に、青汁を買った。

お試しセットだったのだが、半分くらい飲んで、そのままにしていた。

どういう効果を与えるのか、血糖値を測りながらためしてみることにした。

そんなことを考えたのも、今日、「糖尿病の専門の内科」で診察受けて、あまりにお粗末な内容で、呆れ返ったからである。

新潟で糖質制限に理解がある漢方系の医院だというWEBでの紹介で行ってみたのである。

糖質制限はスーパーですか」と聞かれたが、それだけである。

僕の計測しているデータを見てもらおうと思い、見せたのに、まともに見ることもない。


こちらの方も見ないで、パソコンに何やら打ち込んでいる。
何を食べているのかとか、運動はするかとか聞かれるが、YESかNO、パソコンに打ち込める箇条書きでの応えを要求される。

来週から出張だということを話とすると「そんなことはどうでもいい」と言われる。
患者の生活が、ストレスを与えているかということは重要な要素だと思うのだがなあ。


江部先生の本で勉強したのかと聞かれたので、「バーンスタイン博士の本だ」と答えたら、知らなかった(少し後で、知っていつ様な素振りだったが)。


漢方系の何か薬で、早朝血糖が高くなるのを抑える方法や、自分の今の生活の中でどうしたら変わっていけるのか聞きたかったのだが、『そんな薬はない』と一言である。


まあ、確かに、生活を変えてより良い方向に持って行きたいと思っている患者にアドバイスンなど出来ないよなあ。
血糖値測って、その数字でくすりを売るというのは、医師本来の姿ではないはずである。


その場で測ったA1cが6.9だった。

血糖値のパターンは「境界線型」ですよね。と話したら、「あなたは糖尿病ですよ」と言う一言である。
僕は血糖値の範囲が180mg/dlいかに入っているということを言ったのだが.............。
ご飯やパスタやうどん食えばあっという間に300mg/dl超えることは知っている。


その医師の脳みそには、エンパワーメントなどという言葉は一切存在しないのである。





恐怖を与え、自分の権威を強化して患者をコントロールする。
医師や教師、役人、政治家、無条件に権威が有ると思われる存在がいうことが正しかった時代のものである。
相当古いビジネスモデルである。
哀れさを感じる。

この医師には、眼科いって手術してこいと3回言われた。
目に来ると(目が潰れるぞ)何度か言われた。

眼科でも内科行って診察受けろと言われたが、内科と眼科は仲がいいようである。

確かにそうかもしれない、しかし、そうなったら死ぬつもりである。
命がけの挑戦なのである。
確かに恐ろしいが、眼科で診断された時に決めた頃である。



『恐怖で人をコントロールする』ビジネスモデルが有効だったコミュニティのモデルを考えてみたい。





大事なことは、どんな生活をして、血糖値のレンジを低く抑えるかなのであり、その結果『死ぬまで元気』で生きれるかである。


『頑張って、生活を変えられましたね』と褒めることもなかった(まあ、褒められたくもないが)。

ウザい患者だと思われたのだろうなあ。

しかし、あの冷淡さは、マゾヒスティックな患者には快感かもしれない(笑)。


来月の末に来いと言われたが、何しに来いというのだろうか?
思わず吹き出しそうになった。


受付の人は素敵だった。



確かに、『患者が皆自己血糖測定で血糖値落とせること』を知ったら、あんな一等地に医院を開くことは出来ないだろうからなあ。


医者という仕事は憂鬱である。



数年前に学校の問題を考えたのだが、問題は教師に有るということが分かった。
教師は、自分を専門家でスペシャリストであると考えがちである。
しかし、『人』と接する職業では、決してスペシャリストなどありえないのである。

スペシャリストというのは、テストでで測る(採点する)こと出来、基準以上の存在に与えられる物である。
まさに銀行型学習の適用である。


僕はプログラマなのだが、「ソースコードを書く」と言う側面では専門家といえるかもしれない。
しかし、ソフト作りで一番大事なのは、使う人の心を理解することである。
その点においては、スペシャリストなどいない。
お客様の経験以上にその業界を知ることなどないのである。

ともに生きて共に伸びていこうという決心以外の解決はないのである。

なんか汎用あパッケージと作りこみのソフトの差のようである。
確かに、自分よりうまくプログラム作れる客がいたら恐怖である。

自分の存在を脅かすのであるから。




医師も同じである。






医学は、個人の病に対する苦悩とその取組を演繹して、一般的な公式を見つけ出す。
それ効果があるということが分かった時に臨床として適用する。

しかし、臨床においては、その一般的な公式が適用可能かどうかを見ぬかねばならないのである。
検査値で、処方薬を決めて、経過を見て、より高い収入の得られる方向に向かう。
そんな現在の医療制度は間違えている。







僕の小さいころは近所に内科のお医者さんがいて、町内の誰のことも知っていた。
小さな医院で、看護婦は奥さんで、決してお金持ちでは無かった。
彼は、薬を売るのではなく、コミュニティの皆と共に生きていたのである。

学校の先生も、そうだった。
遠くから通うことが出来なかったから、地域に家があって、共に生きていた。




やはり、医療と教育、そして食は「グローバリズム」に向いていない。











民間療法と言われて、医学会からは馬鹿にされるが、ぼくは医学の方こそ学ぶべきだと思う。
民間療法では医師と患者は共に生きようとしているのである。
無論ひどい連中もいるが....................

医学は治療から、いかに金を儲けるかということが重要なのである。


民間療法と医学の差というのは、本質的にはないのだ。



権威を付けて高値で売られるのが『医学』である。

民間療法と名付けれれ、馬鹿にされ、排除される様々な試みは決してそんな扱いを受けるべきものではない。

考えてみれば、「ペニシリン」だって、インデアンが傷に青カビを塗っていた民間療法ではなかったか?


なので,青汁実験を始めることにした。
効果がないと困るし、僕に効果があっても他の人にはないかもしれないので、商品名は出さない。
大事なことは、自分の体で取り組むことである。

「糖尿病の解決」に限らないで、あらゆる問題の解決は自分自身でしか出来ないのである。
やはりアドラーは偉大である。



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僕が医師だったら糖尿病の患者にどんなことを聞くだろうか?(1)

以下の記述は2型の患者(炭水化物のとりすぎに起因する)に対しての物である。1型の患者にとってインスリンは福音であり、血糖値の生活の中での傾向の理解(血糖プロファイリング)を通して「最低の量を最小の回数」使用することで長く健康な人生を送ることが出来る(バーンスタインの原則)。


昨日の不愉快な診察の後で色々と考えた。


僕は糖尿病を、『米小麦コーン砂糖依存症』と位置つけている。

意識は細胞の欲求から逃れることは出来ない。
細胞は自分の欲求が総体としての体に破壊的な影響をあたえることがわからない。

あたかも、個人の行為が地球環境をどう破壊するか分からない様にである。



アルコール、麻薬、タバコ、覚醒剤や、特定の状況でのセックスや暴力、いずれも、体に破壊的なダメージを与える。

例えば『牛乳アレルギー』のなった人を考えると「その個体が、牛乳という物質を適切に処理できない」のである。
だから、解決策は牛乳を飲まない他ないのである。


ジンマシン出たり、即効で影響が現れるアレルギーはまだいい。

影響が現れるのに20年かかるようなアレルギーも有るのだ。
それが、「炭水化物アレルギー」である。


通常「アレルギー」と言う言葉は特定のタンパク質を免疫系が非自己と認めて過剰な反応を示すことである。
ここでは拡大して、体が特定の物質を適切に処理できなくなる状態を指すことにする。



炭水化物は、生命の共通の通貨である「ブドウ糖」(生命のエネルギーATPを効率的に生産する)を大量に得ることが出来る。
その為に、炭水化物の摂取に対して細胞は「ご褒美」を出すのである。
その快感物質に意識がコントロールされている状態が中毒と呼ばれるのである。

細胞は自分たちの入れ物が壊れる結果になることも知らないで、求めるのである。
まさに盲目の欲求者である。


考えてみれば、すべて中毒はこの構図を持つ。



そう考えると、糖尿病の治療(生活改善)は、依存症の克服プロセスと同じなのである。

その人の生活を知って、人の作為を予測する。

エレメンタリーによればアメリカでの依存症治療のためには、「付添人」「支援者」という人物がいるそうである。

人のつながりの中で依存症は克服されるのだ。
同じ問題持った人間どうして互いにつながりを持つことで、依存症を克服する。

ぽんと薬を渡して簡単に終わる問題ではないのである。






無論、炭水化物中毒を克服するために、インシュリン中毒に飛び込むという選択も有る。
そして、医師も、患者をインシュリンや血糖降下剤で治療する売上の中毒なのだ。



医師も、経営者として困難な人生を生きる。他人の中毒のおかげで生きていくというということはヤクの売人である。


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