常識的「エビデンス」批判、人は皆違う。ナラティブとはなにか?
エビデンスとは「根拠」と言う意味として使われる。
「経験的な民間療法」と「権威による医療」の違いを正当化するための観察結果だと言っていいだろう。
エビデンスとは観察結果なのだ。
一定の人数の集団を特定の条件においた場合にその集団に何が起こるかを観察した結果なのだ。
その根底には「標準的な人間像」がある。
各種の検査を例に取ってみれば分かる。
検査値が一定の範囲内にあることが健康の定義になっている。
ここで言う健康とは「病気でない」(医者に治療を受けない)という意味でしか無い。
このエビデンスという概念を考えれば考えるほど、「工場での歩留まり」という考え方が頭に浮かぶ。
つまり、工場で何らかの製品を作っている時にどのくらいの率で「売れない商品」が出来るかという率のことである。
「公衆衛生・予防医学」という概念が行き過ぎているのかもしれない。
本来明確な因果関係がある場合に限って「公衆衛生・予防医学」は行われる必要がある。
しかし、検査値を正常にする為の投薬の問題点は別であろう。
学校の偏差値を考えるともっと良く分かる。
いい学校に進学するという目的のために、偏差値という検査値をチェックする。
しかし、いい学校に進学するというのは幸せな人生かと言うとそうでもない(と思う)。
なぜ「標準的な人間」をヒトは求めるのか理解するのは、難しい。
中世では、宗教は特定の規範にしたがわない者を異端として焼き殺してきた。
近代では、精神病として病院に入れるか、犯罪者として烙印を押してきた。
だから、僕のように糖尿病の治療を拒否する人間は「異端」として排除される(笑)。
健康とは「病院や人の世話にならないで、寿命まで生きてコロリと死ねること」と定義しよう。
まあ、「寿命」というやつの定義は面倒であるが、
「自分を知っている人の数が寂しくなる位の歳」
「自分が知っている人が周りにいなくなるくらいの齢」
というような感じであろうか。つまり、「孤独」を感じるかどうかをマーカーにするべきだろうなあ。
しかし、「孤独」という極めて主観的なマーカーは年令に関係なく襲ってくる。
孤独かどうかという事は「ナラティブ」な問題である。
今日父が久しぶりに散歩している姿を見て、そんな事を感じた。
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