「身体と言うコロニー」論 生きることの意味が生まれ死ぬための理由が必要になった。

身体というコロニーに関してである。

細菌生物学を勉強していくと、「私達の細胞」と「(DNAの起源の違う)単細胞生命」の間には強い補完間関係があることが分かる。
よく、共生と言われているが、もう少し積極的に見たほうがいい。

ヒトは意識において、「自分」と「自分以外」を明確に分けたがる。
そのために、「バイキン」や「善玉・悪玉」という概念をつ。

免疫は「自分以外」を攻撃して「自分」を守る正義の味方と思っている。
しかし、「ガン(注1)」や「自己免疫疾患(注2)」を考えてみればそんな考えは間違えていると思う。




生命(身体)を一つのコロニーと考え、共生するミクロの生命を『お友達』と考えるのは昨今の流行りである。
しかし、やはり、敵か味方かである。
善玉 vs 悪玉の闘いである。

体内で起こっているのは純粋な化学反応である。
単純でシンプルで、コロニーの意識は関与できない。
なという分かりやすい嘘が見誤らせている。



自己と他者があって免疫が有るのではなく、免疫が有るから自己と他者が有る。
このことはまた考える事にする。








最近、読んだ本に、体の中の(自己以外の)ミクロの生命が私達の意識を操っているという事を書いている本があった。


しかし、これはアタリマエのことなのである。

回虫が肛門付近に卵を生むと、肛門付近は痒くなり、宿主が肛門を掻くことで卵が広い世界に配布される。痒みという手段で、宿主を操っているのである。回虫レベルでも行っていることである。

そして、人間同士のコミュニティでも他者を操ろうとする。


類例はいくらでもある。




身体というコロニーが内部で生きている数限りない『ミクロの生命のニーズ』をどう受け取っているかである。

私たちは、それを意識という。

意識にとっては敵も味方も、善玉も悪玉もそういう区分や価値は意味がない。したいものはしたいのである。

tiger tigerの神の存在証明参照



だから、群れ(コミュニティ)を維持するためには禁じることになるである。
しかし、禁じきれるわけがない。

自分自身の行動だと言っても、「食欲」「性欲」は意識では制御できない。
生殖を行うプロセスを考えてみれば、いかに複雑なプロセスを「性ホルモン」が操っているかが分かる。



長く「人生の理不尽」をどう説明するか悩んできたが、なんとなく結論が出そうである。

説明することでコントロールできるかどうかは、その説明が妥当であるかの試金石であろう。


意識というものを過大評価している点が問題なのである。

科学は「擬人化」から抜け出さねばならない。






生まれて、成長して、子供ができる。
多くの種においては、親の役割は終わりである。
そして、ライフサイクルも実際に、次の世代を作った所で終わる(死ぬ)。

しかし、ヒトのように群れを作る生命においては「子供のバックアップ」という役割を担うことでその種が大きく広がれるようになった。

渡り鳥も群れで渡るし、多くの哺乳類は群れを維持する。



『次の世代を産んだ後での「生」の理由』が出来たために、「死」の理由が必要になったのである。








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注1:ガン
2016年、癌治療のガイドラインが変り「免疫療法」が治療法と認められた。「寛解」がゴールとして設定してもいいことになった。ガンは身体の中で毎日、発生していて
免疫が破壊できなかったものが癌になるという考え方が認められたのである。


注2:自己免疫疾患
免疫が自分を攻撃すると言う定義である。この定義には「自己」という言葉が使われているが、ミクロのレベルにおいての「自己」の定義は使わないほうがいい。糖鎖タンパクが自己と他者を峻別しているという定義を見たことがあるが、イマイチのような気がする。
ミクロのレベルにおける「自己と他者の峻別」は面白い分野である。
「免疫学」は、早い話このことを論じるものである。