七人の侍 いつか子どもたちと見たい映画 mixiから引越し2007年03月17日 22:16
何度と無くテレビで放映されている。
大学にいた頃、カセットテープに録音しながら見た事を覚えている。
そうやって録音して何度も聞き返したのはブルースブラザースと七人の侍だけだった。
ご時世は変わったものだ。
ブルーレイが出ているそうだから買いたいものだ。
黒澤明は偉大だ。
七人の侍という映画は多く論じられているし、様々な言葉が連ねられている。
僕がこの映画で感動した事を少しでも麻菜やマー君に伝えたい。いつか読んでもらえるかなあ。==============================
まず、『七人の侍』という題名は正確ではない。
侍というのは、(狭義では)権力者(税金を集めてそれを自由に使えて、暴力を正当に行使出来る存在)に毎月給料もらい、指示に従い暴力行使のプロフェッショナルを呼ぶのである。(ここで言う正当とはそれ以上の暴力が存在しない状態を言う。今の日本の警察を考えれば良い。)
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しかしながら、ここに出てくる7人はいずれも現時点では特定の権力者に雇われていないから、侍ではない。
『七人の浪人』とでも言うのだろうか、侍であった事が有るか、これからなりたいと思っているかの人たちの話しである。そして時代は、戦国時代の終わり、強力な覇権はなく、まだ治安は悪く納税者である百姓は権力者に守られる事は少ない。
時代が後になると権力者は納税者を自分たち以外の暴力組織から納税者を守る様になる。
これが徹底されると治安が良いと呼ばれる社会が出来上がる。(今の日本は治安が良い。税金を払っておけばヤクザに脅される事も無い。払わないと警察力に裏付けられた税務署が身ぐるみはぎにくる。)
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浪人という存在は面白い。彼らは日本独特のウエットな主従関係を雇い主と結んで行くのである。
ここでは百姓が雇い主である。『百姓たちと七人の傭兵の交流』がまた見事にこの映画の一つの主題となっている。文化の混合が生まれ、この映画は様々な深読みが出来る。
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【沢山書く事は有るのだが、今は菊千代という名前の男の事を書かねばならない。】
三船敏郎が演じているのだが、この俳優がいなかったらこの映画はここまで深いところにいけなかったと思う。
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前半の終盤、侍たちは、百姓に雇われて村にいく。
村に着いた時には刀も槍も弓も鎧もなく困っている。六人があばら屋の中で相談していると何処からともなく菊千代が百姓を引き連れて、槍や刀や鎧や弓を持って入ってくるのである。
「どうだい、武器を持って来たぜ」と得意がる菊千代。
その時侍たちは一斉に怒るのである。なぜならば、その武器は合戦があって『負けた側の侍たちが百姓たちに竹槍や鍬で殺され、身ぐるみをはがれた』後に取り上げられた武器だからである。
そこにいる侍たち怒るのは当然である。彼らも負けた側に立ち、百姓の落ち武者狩りから命からがら逃げた事があるからだ。
そして、侍の一人が「俺はこの村の奴らが斬りたくなった」という。この時点で彼らはまだ、支配者の側の一員なのである。
『働いて米を作る百姓』と『それを取り上げる侍』という図式の中で彼らは、『まだ』取り上げる側の人間なのだ。☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*☆*
その言葉を聞いて菊千代が怒るのである。丁度1時間半くらいの所である。このシーンは圧巻である。いつも涙が止まらなくなる所だ。三船敏郎という人がいかに凄かったかが分る。
【以下 菊千代の台詞である】☆★☆★☆★☆★☆★☆★
こいつはいいや、やいおめえたち百姓を一体なんだとおもっていたんだ。仏様とでも思っていたのか。
笑わせちゃあいけねえや、百姓くらい悪ずれした生き物はねんだぜ。米だせっちゃ「ねえ(無い)」、麦だせっちゃ「ねえ(無い)」、なにもかにもねえっていうんだ。
ところが有るんだ、何だって有るんだ。床板ひっぺがして掘ってみな。そこに無かったら納屋の隅だ。出てくる出てくる。瓶に入った、米、塩、豆、酒。ははは、わはははは。山と山との間に行ってみろ、そこには隠し田だ。
正直ずらしてペコペコ頭を下げて嘘をつく。何でもごまかす。どっかに戦でもあればすぐに竹槍作って落ち武者狩りだ。
良く聞きな、百姓ってのはな、けちんぼうで、狡くて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだ。
おかしくって涙がでらあな。
だがな、こんなケダモノ作ったのは一体、誰だ。おめえたちだよ、侍だってんだよ。馬鹿やろう、畜生。
戦の為には、村は焼く、田畑は踏んつぶす。食い物は取り上げる、人夫にはこき使う。女はあさる、手向かえば殺す。
百姓はどうすりゃいいんだ。百姓はどうすりゃいいんだよ、くそー。
「ちくしょう、ちくしょう」と泣きじゃくる菊千代.....勘兵衛が「貴様、百姓の生まれだな」と声をかける。
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菊千代の言葉はどのように6人の心に響いたのであろうか?
このシークエンスが映画の中の分水嶺である。この後、侍たちと百姓は徐々に近づいてやがてラストのクライマックスに突入するのだ。
クライマックスの勘兵衛のしぼる様な『菊千代』という叫び声のところで僕は涙が止まらない。
菊千代は何を見て来たのだろうか、その瞬間、何を思うのだろうか。彼の魂は何処で安らぎを得るのであろうか。
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この映画は、支配者階級の側に立っていた戦いのスペシャリストが、或る時自分自身の内面の人間が目覚め、彼ら自身が変わって行く物語なのだ。そこには失った何か大事な物を取り戻そうとする人間の素晴らしいドラマが有る。
同じ黒沢の映画の「生きる」なども同様の構造を持った映画と言えよう。
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このシーン以外にも、いくつか同様の事をメッセージとして伝えるシーンが有る。勘兵衛(侍のリーダー)が百姓の依頼を受けるシーン。ここでは馬子が百姓の一連の行動や話しをずーっと聞いていて、勘兵衛に食って掛かるシーンがある。前半の大事なシーンである。ここも痛い場所だ。この後(前半の最後、襲撃が始まる直前)の水車小屋のシークエンスなども重なりあって、様々な人間が表現されて行く。
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敵役の野伏せりもやはり食って行く為には百姓を襲うほかなかった。
侍としての誇りが有るかどうかがどちらの側に立つかの差であったのである。
そして、生きる為の作為「=暴力:百姓も竹槍で侍を殺している事を忘れてはいけない」を善悪で切り分ける事は出来ない。
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この映画で、黒沢は何を伝えたかったのであろうか?人はそれぞれの立場で、生まれ、生きる。
自分の責任無く様々な場所に生まれ、そこで生きる。そして生をまっとうする。敵となり味方となり、愛し、愛され、憎み、殺し、殺され、泣き、笑う、そして人生は終る事は無く、善悪の向こうに人生はある。
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白黒映画であるとか、音が聞こえにくい(日本語字幕がgoodである)とか、長い、なかなか物語が始まらない、といった悪条件(?)は有るが、この映画は素晴らしい。
僕は大好きである。
みんな見ると良い。
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