『心は脳にあるのだろうか』と言う問いかけ。

「心は脳にあるのだろうか」という問いかけは何を意味しているのかなかなか理解を得られない。

脳みそ(精神)が肉体を操縦するというイメージから離れられないとなかなか難しい。



私達の生活には、分かってはいるけどやめられないことは多い。
タバコや、酒、セックス、いずれも細胞が望み、精神を動かしている。

ストーカーも同じである。どうしても止められないのである。
自分の人生が破壊されてもいいから、誰かと繋がりたいのである。
ストーキングの相手が、自分と同化して一つになれると思うことは幻想であるのだが、体は信じてしまうのだ。






理性と本能と対立したものと思われるが、僕には対立したものとは思えない。
両方は矛盾していると考えられがちであるが社会という仕組みを維持することと、個人の肉体を満足させることは本来矛盾するものではない。



心とは、体がより多くの欲望を満足させるために作った仕組みなのだ。
考えてみれば当たり前のことだが、脳は体(より上手く相互の連絡を取り、効率的に運用する仮設に基づいて)が発明したものである。

社会に対してのアナロジーも面白い。
政治は市民がより強い社会を望んで発明したものである。しかしながら暴走してしまう現象が起こる。
今在私達の直面している「民主主義」はまさにそういう局面である。
徐々に、末端は腐り、やがて体全体が朽ち落ちるのである。




相容れないようにみえるのは必要とされる「財」が「要求」に対して足りないためである。
そして、人の体の「要求=欲望」は満たされることのない「乾き」であることが問題の本質である。

ソシュールが提唱した「ラング」と「パロール」の問題は大きな社会科学(人間を理解する事が目的である)の問題である。
安吾の見つめていた人間の「堕落」を共に考える。






何度目か分からない位「パシフィック・リム」見てそんなことを考えた。

レインズマンを探しているが見つからない。
マインドブリッジは注文した。

彼がバブアー(Barbour)を着ていて嬉しかった。


どうも、僕の持っているモデルと同じような気がする。
ムーアランドと言って、もう作られていないモデルなのだ。


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