「人生痩せたり太ったり(仮題)」のコンセプト( 13 )共生か強制か? 遺伝子の欠損が意味するもの

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植物は生きる上で必要なすべての要素を太陽光線から生むと言うが、ちょっと大げさである。
土の中の「マイクロバイオーム」が存在しなければそこは荒れ地のままである。
というよりも、最初にマイクロバイオームが存在して、ある程度の環境が整うと、真核生命がコロニーを作ると考えると納得がいく。
真核生命のコロニーはマイクロバイオームとのセットで成り立つ雑居ビルのようなものだ。






様々な生命が「共生する」というのは美しい表現である。
あたかも、友愛に満ちた花園のようである。

しかし、そう考えていくと多くのものが見えてこない。
すべての生命は生きるために希少なリソースの取り合いをする。
決して幸せな「仲良しこよし」なわけではない。
同時に血肉を分けた闘いの場でもない。
淡々と最も効率よく有機物を作り、代謝して無機物に分解する生命が大きな位置を占める。
ただそれだけなのである。
そこに悲しみや愛や勇気や裏切りなどというものはない。
善玉・悪玉もない。
それは、漫画か医学書に任せておけばいい。






ビタミンCを作り出っす代謝系が失われた過程に関しての研究に触れた記事を少し読んだことがある。
ビタミンCを作れなくなって、誰が利益を得たのだろうかと考えなければ、この問題は見えてこない。
まるで、ビタミンCを体内で作れなくなった私達(ヒトの精子卵子に起因する真核細胞群)が欠陥品の様に書かれていた。


進化医学の視点で行けば、トレードオフの結果なのだ。
得るものが有るから、失うこともいとわない。

何かを買えば、財布の中から金は減る。
アタリマエのことである。

遺伝子(=タンパク質)市場がそこには存在する。
『遺伝子ゲノムの経済学』って面白いと思うなあ。





真核生命がミトコンドリアを細胞の中に「飼いだした」プロセスをどう捉えるかということでもある。
逆の視点から考えれば、細胞の中に寄生し始めたミトコンドリアは何を得たのかということである。





家族は、共生しているのか、振る舞いを強制させられているのか?
コミュニティ論と重なり合ってくる。

コミュニティの構成員はみな何らかの貢献をして、利益を得る。
そして、コミュニティは構成員への制裁の手段を持つ。
制裁は構成員残員が知っている。
環境が変わり、入手可能なリソースが変化すると力関係も変わる。



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当然マイクロバイオームの中での生存競争もあれば、「競合・同盟・裏切り・再構築」とでも言うべき関係性は存在するだろう。

そして、様々なタンパクを発して、ホストをコントロールする。

精子と卵子が共謀して、不倫をおこない、社会的に抹殺されるようにである。

幸運な病のレシピ( 95 ) 里芋牛鍋、ゴボウ鳥ロール、魚の干物

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牛肉が少し残っていたので、里芋と一緒に鍋にした。
あまりしたことがないのだが、鶏肉でごぼうを巻いた。
魚の干物が旨そうだったので焼いた。

箸休めはキュウリとカニカマにカマンベールチーズにマヨネーズ。
買ってきたお惣菜もある。
少し飲んでしまった。ここ毎日であるが.......




皮ごとガラガラと煮ると里芋は皮がつるりと向ける。
里芋は脚が速いので、買ってきたら早めに使う。
母は良くのっぺを作ってくれた。

皮ごと下茹でをすることはなかった。



汁を盛るときは、その人にあった中身を選ぶ。
僕は中心に最後に入れた青い葉物、里芋(根菜)キノコ、糸こんにゃく、鳥、牛を周りに取り巻くように乗せる。
他の皿との兼ね合いを考える。



干物が焼き上がる頃にししとうを乗せて炙る。
鳥のぶつ切りならば焼き鳥になる。

オーブン最強である。




焼いたばかりの干物は熱いので注意。
父の皿に乗せるときは、骨はきれいに取る。
食べることは出来るようなのだが、歯の間に挟まることが多いから退けるようにする。




キュウリ、カニカマ、マヨネーズ、カマンベールチーズの細切り。

セロリや玉ねぎ、カイワレと言った物が入っても美味しい。
キュウリを漬け物にするために買ってきたのだが少し使って箸休めに作った。


コールスロー系のサラダに、小さなチーズを刻んで入れると美味しい。

卵のスクランブルでもいい。



ごぼうを煮始める。
狭い鍋にヒタヒタに入れて、強火にする。



皿をかぶせて落し蓋に使う。

味付けが難しいが、今回は塩だけである。
多分、ローレルなどもいい。
醤油味にしても嬉しいだろうなあ。
中に入るのはゴボウがいい。









今日は妻が遅いので、父と二人で食事である。
ちょっと離れた所まで散歩に行って上機嫌の父。今日は酒はコップ一杯だった。



父が元気な食事は僕を元気な年寄りににする。何せ遺伝子は半分を共有している。そして同じように母の食事を食べてきた。
僕は母の食事を思い出しながら家族のために毎日の食事を作る。

88歳になった時に父のようにボケることもなく、楽しかったと毎日を振り返り、庭を眺め、鯉を愛でて生きることが出来るだろうか?


家族は「荒れ狂い私を傷つける"現実"に対してのシェルター」であり、同時に価値を強制する暴君でもある。
そして家族は食事を記憶する装置である。

僕は20歳の頃、東京にいかせてもえた。
僕に人生の道を強制する父と母から逃れる様に映画ばかり見ていた。
父と話をしながら酒を飲んでいると、一言では言えない思いが浮かんでくる。

年を取ったものだ。




父の食事と僕の食事、微妙に違う。



荒れているが、手際さえ間違えなければ淡々と片付いていくのである。
妻が帰ってきた時に、余り荒れているといけない。
家庭の主夫の鏡である。





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妻が帰る前に寝てしまい、日付が変わる頃起きた。

台所をきれいに片付けた妻と入れ替わりに仕事を始めた。我が家は2交代制である。

国体の納品物も昼には発送して、これから少し大きめなwebアプリである。
気合い入れねば!
仕事が続くのは有り難いことである。重圧ではあるが。