僕がappleを嫌いな理由

そもそも、コンピュータの世界に入り込んだのはmacとの出会いからである。
1986-7年の頃だろうか、多分 Machintosh II をキャノンのゼロワンショップから買った(無論会社がですよ)。
以来、ずーっとappleのマシンでの開発をしている。


正直、ジョブズは好きなんだけど、嫌なやつだったんだろうなあ〜
まあ、この話はおいておいて…….


日本の馬鹿な官僚が起業と言う言葉でイメージするのはジョブズのようだが勘違いもいいところだろう。
まあ、この話はおいておいて…….




僕がiphoneを止めた理由は、どでかい本社を作るところである。

中国でappleは市場でシェアを得ることが出来ないと考えている人がいる。
僕も賛成である。

自殺者を出すような苛酷な状況を強いるアップルはおかしいのである。



企業は利益のために活動するというのは株主が社長の運命を左右する資本主義では当たり前の話である。
しかし、社員が幸せにならない企業はそれでいいのだろうか?
無論、中国の下請け会社で働く人々ははappleの社員ではない。
下請け会社は、どんな仕事でもするだろうし、裏切ることもじさない。
そんな会社をコントロールするのは大変だ。
しかし、自分たちの給料は、そんな人達が働いて出来上がった商品から生み出されるのである。

CSR(企業の社会的責任)と言う考え方がある。

環境を破壊しないようにとか色々なことを打ち出すのである。
僕は、地域の人達を幸福にする取り組みを社是とする企業が好きだ。
未来企業という会社をご存知だろうか?
僕はこの会社が大好きである。
一切海外での製造を行わないでパナソニックなどよりも高利益率を誇る、
社員が一丸となって企業の価値を信じて実現しようとする。
日本一休みが多い会社だそうだ。
「楽して設ける」と言う本を読んで感動した思い出がある。



新発田にも企業はあるが、生産拠点を海外に移している会社がある。
やめていただきたい。
地元の人々の雇用を守らないで、何のための企業だろうか。

国家をあげてグローバル化が大流行であるが、やがて、ノウハウが奪われ彼らは自分たちのための会社を作る。その程度のことも分からないでそれを推進している愚かである。



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阿賀野高校生徒の自殺を考える。(7)

どうしたら、子どもは親に話してくれるのだろうか?


僕が校長にいじめ殺された(象徴的な意味ですよ)三役会でも問題としてあげた項目であるのだ。


学校アンケートの中に父母からの声として「学校のことを話してくれない」という声が載っていたのである。

親は、子どもは、学校で何か楽しいことや困ったことが有ったら話して当然だと思う。
それを何も話してくれないのだからこれは大きな問題である。

恐らく、親も素振りなどから、何かおかしいと感じていることなのだろう。

僕は、これは大きな問題だと思った。
ほとんどの親が何も書いてこないようなアンケートに書き込んできたのだ。


そんなSOSが書き込まれたアンケートを「イジメはないし、この学校運営には問題がない」という結論しか頭にない校長や教頭、教務主任には見えることはない。






親子の間の会話がないというのは大きな問題である。
しかし、そういう親子は多い。
当たり前であるが、それにたいする処方箋は文科省ガイドラインでは見つからない。
親子関係は無誤謬(間違えがない)であるからしたら我が身を省みることは難しい。

宗教や多世代の同居、地域コミュニティの有った時代には、子どもには様々な関係性が成り立っていたが、今はそういうことはない。
時代が変わったのだから、それに見合った仕組みが必要である。





僕の友人でも、子どもと数カ月口を聞いていないと言う親子がいる。

親に子どもがなにか言った時、いつも「怒られる」様な関係性になっていると何も話さなくなる。
いつも「褒められる」様な関係になっていると、自分自身が壁にぶつかった時、親を憎むことになる。
アドラー「褒めるな」「怒るな」という。賛成である。






家族というコミュニティの中に子どもは生まれる。
子どもは家族というコミュニティに対しての100%の従属をする。
これは当然である。子どもが生きるために必要なものを全て供給するのは家族だからである。
子どもが何らかの「ズル」をすると親は怒る。兄姉がいる場合は、親は監視役を委託する。
子どもは、コミュニティでどう振る舞うかを、家族というシェルターの中で、親の姿を見て学ぶ。


家族以外のコミュニティで子どもは異なった環境でどう振る舞うかを学ぶ。
もっとも組織的に行われるのが学校である。

教師は親をシュミレーションする。これは、教師という人間が家族の中で学んだ方法でクラスを律しているからである。教師はクラス(コミュニティ)の共通の価値を決め、逸脱者を糾弾するルールを決める。


そして子どもは子供だけでグループになった時に親や教師を真似てそのグループの「共通の価値」「逸脱者の糾弾のルール」を決める。

なにか異なった価値を見つけたメンバーを「いじめ殺して排除」するか、「新たな価値を作り出す」かはそのコミュニティで共通の価値を構成する仕組みが重要になる。


教師も親と同じように「褒める」し「叱る」。
教師に依存する子どもを可愛がるし、反抗する子どもを嫌う。






家庭と教室は、よく似ている。
その両方共、自分から選ぶことが出来ない。
その中で「自分の価値」と「集団の価値」の確執を学ぶ。

子供達は、失敗の許される環境の中で、時に妥協して、時に学び、いかに社会を作っていくべきか知る。

残念ながら、「学力向上を目的としている」今の学校では、適切な学びをえることは出来ない。
すでに、学校は失敗の許される環境ではないのである。





今、民主主義が危機にあるとよく言われる。
国家という共通の価値がどのように構成されるかが機能不全に陥っているのである。
異なった価値のある人間を排除する社会は、内部から崩壊する。

ローマはなぜ崩壊してのか、テロはなぜ無くならないのか、ISISに共感する人間はなぜ増えているのか。
この問題は皆つながっている。









親子の関係というものも、ヒトの持つ集団を作り活動をする本能が最初に現れる場である。
ヒトの子供は他の動物に比べて、「仔が餌を取れるようになり仔を埋めるようになるまで」まではるかに長い時間がかかる。
このために、本能には2つの仕掛けがある。
1)「集団を作る(親子の愛情)」
2)「集団から排除する(反抗期)」
この仕掛は群れを作る哺乳類に一般的な物である。しかしながら、「父親」という他の哺乳類にない存在を持っている。
反抗期は、異なった価値を持ち始めた子どもをどのように扱うのかという問題の一つの回答である。

本来ヒトと言う生き物にとって、子どもの家族からの分離は15-16歳の時期のような気がする。
性的な能力が十分になったら、同居していることは近親相姦の危険がある。
昔の嫁入りの時期、丁稚奉公の開始、元服の年齢、いずれもこの時期である。

そう考えると、今の時代が異常なのだ。




学校というのは、家族という仕組みを補強している。

誰かそんなこと言っていたかなあ。
とりあえずこの24時間で考えた結論はこれだな(笑)








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