学びのビヘービアをどこで身につけるのだろうか?

もう30年も前のことである。

僕は3年浪人して大学に入った。
当時、浪人は珍しく、同期では2年浪人した人が二人、もう一人三年浪人生がいただけである。

一年生で登校すると、その道程で様々なサークルの人々が勧誘に歩くものだった。
その時に3年浪人していると言うと、すこし憐れむような目をして「サー」と彼らは引いていくのだった。
軽い孤独を味わうことになるのだが、それはいいことだったと今は思える。

サークルは先輩後輩がいて楽しい物のようだった。
授業なども「ラクタン(楽に単位が取れる教科)」を知ることが出来て、割のいいバイト先を紹介される。
大事なことは、大学生活をどう送るのかという「社会的(サークル的)な作法(ビヘイビア)」を学ぶ場になるのである。


小中高校と親や先生に「評価される」ことで自分のアイデンティを得てきた18-19歳の「ヒト」にとってサークルは心地よさを与えてくれる場である。
合宿に行くためにバイトして、単位を取るために「ラクタン」するビヘイビアを学ぶのである。


4年間の大学生活を終わった頃にはそれなりの大学生が出来上がっている。
悪くはないがその後の40年間、ちょっと悲しいことになるような気がする。
僕の子どもにはそんな風になってもらいたくない。
僕の会社に雇うヒトは、そんな人間は駄目だ。
学歴不要ではあるが、そういう大学生とは共に生きていけない。

駄目な社員は僕の会社も、人生も破滅させるからだ。


僕は子どもにいつも言っている。

最低、英語以外の言葉を一つ覚えてもらいたい。
一般教養は自分の人生をより深くする物を見つけなさい。
無論、毎日フルに授業を取りなさい。
専門課程は、教授と議論できるように、項目に対しての専門的な論文を読みなさい。
「サークル入ったり、バイトしたり」と「学ぶこと」は両立しない。

学ぶ気がないならば、大学などいってもしょうがない。




僕は、運良く1年の時からゼミに入ることが出来た。
ゼミの中では自分なりに調査して、自分の意見を発表する機会を得ることが出来た。
ゼミ生は皆発表を嫌い避けていたが、僕は最後の授業の時に自分の大好きなテキスト(堕落論)を題目に発表をしたことをよく覚えている。
教授(芹沢斉 先生)と飲んだりする機会を持てたのはとても印象的な思い出である。


一般教養の日本史で中島三千男先生の授業でボロボロに泣いたことを覚えている。
次の年も別な授業をとった。
合祀の問題を論じていた。



3年生になった時に齋藤靖夫先生のゼミに入ることが出来た。
一生の出会いだった。


今でも、世の中に対して色々と考えて、本を読み、自分の社会的な責任を果たしていきたいと思っている。
そんなビヘービアを僕はどこで学んだのだろうか……..


何人かの技術者を僕は育ててきた。
いつも問題となることは、その技術者に「常に学び続ける」という事を伝えること。
残念ながら、ビヘービアは言葉では伝えられない。

その人のようになりたいと感じてもらえるかどうかである。
その人のビヘービア(行動)がその人を作っているということを知った時、同じように生きる決意が生まれる。



僕は、出会った先生たちのようになりたいと感じた。
そして、学び続けるビヘービアが身についたような気がする。





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