幸運な病のレシピ( 1966 )夜:スーパーのお寿司、その他諸々、しこたま飲んだ
【 2020/2/29の食事 】
炭水化物は美味しい、酒は旨い
満腹になるまで食事はやめられない。栄養学は我慢できないお前が悪いという。昔は、我慢させることも出来ないくせに患者の責任にする医者を憎んでいた。今は、「家族という欲望を閉じ込める檻」が崩壊した社会の問題だと思っている。「過食・拒食・依存・セーフティでないセックス」いづれも「家庭=企業・商店・農家」と言う図式が崩れた時期と重なる
家族というシェルターが同時に檻であった
「宗教」というラング(古い人は共同幻想と言ったり)が家庭において「食事作り」と言うパロールで具体化される。「延長された表現型」とドーキンスは呼んでいた。
それが、見事に破壊されたのである。破壊と言うよりも今の社会システムを通して新しい形で表現されている。
「生活習慣病、何種類もの薬を飲みながら手術を繰り返す人製の終わり」これもまた、同様である。
僕の取皿
寿司食って、手巻きして、ニンニク食って、春雨サラダ食って、カツ食って。録画したテレビ見てくたびれた。
痩せないわけである。
宴のあと
「商品化された食事」「政治的に正しい皿の上の栄養学」が『ガンや、認知症、心疾患に循環器、壊疽に肺炎、透析に眼底網膜症、骨阻喪症にリュウマチ痛風膠原病に難病指定、薬で下がる検査値の異常(糖尿痛颶風高血圧に高脂血症)』を生んでいる。
「病(と医者が呼んでいる災厄)」は食事の反映でしかない。
炭水化物は毒ではない、誰もが抗えないほどに魅力的すぎる。食卓は、炭水化物が中心になり、緩慢で直接的な因果関係の見えない欠乏症を生む。
食事作りは面倒だ、私達が作れなくなったのには理由がある。そして僕は毎日素材から食事を作る。
今日の食事が死に方を決める、明日の食事が生き方を決める。
『炭水化物がいらない食卓』はこちら『幸運な病のレシピ 宣言』は[http://d.hatena.ne.jp/masay