「認知症」とは何であり何でないのか?「他人を理解しようとしない病」が生んだ「病気」。他者とは自分を写す鏡である。

ここしばらくの父を見ていて感じたことだ。


他人に理解できない行動を取ると「認知症」と呼ばれる。
少し前までは「キチガイ」と言われたものであるが、差別的であるということで「統合失調症」とか言われることも多い。
特に年齢が上になると「認知症」と言われがちである。


しかし、問題があった。
多くの「精神が関わる『疾患』(僕はそうは思っていない)」は本人の自己申告なのだ。
「視力・聴力・嗅覚・味覚・触覚」「食欲系=拒食・過食・依存症」「セックス=セックスレス・異常性欲・LGBTQ 」


中世のヨーロッパでは「魔女狩り」としてそれ以前の社会では(単なる)部族同士の抗争劇として社会に現れた。
魔女狩り以降は「精神病」として「治療」することで自分に理解できない「ヒト」を隔離して死ぬまで目に触れないようにした。


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昨今、「アミロイドβ」が多く見つかると認知症であると言われる。
サプリメントもこの物質を「脳にいれない、排除する」物が多い。
しかし、それは違うと思う。

あるサイトを見ていたら、アミロイドβやレビー小体は脳の中で外部からの侵入者を壊して無害化する過程で生まれると言う学説が紹介されていた。

gigazine.net
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この考え方は面白い。
かなりの高確率で『道路の事故現場』には「救急車(や野次馬)」がいる。
それを観察していたヒトは、「救急車(や野次馬)」が事故を起こしていると考えてもおかしくはない。

血管のプラークにコルステロールがたまり様々な疾患を起こす。
しかし、一番の問題は、血管の内皮と筋組織の間に「タイトジャンクションが破れ」隙間ができることである。
そしてそれを修復しようとして様々なサイトカイン(コルステロールも含むべきかっもしれない)が集まり、プラークは生まれる。
では、本当の問題はどこに有るのだろうか?




僕は現実(食事)にこそ有ると思う。




救急車は事故を起こしてはいない。
事故が起こるから救急車(や野次馬)が呼ばれるのだ。




医学は「健常者」と「病人」の差を検査値で見つけようとする。

しかし、今僕が考えているのは「検査値」というのは「身体というコロニー」の環境に対する「自然な反応」であるというものだ。
そして、異常な行動は現実に対しての当たり前の反応なのだというものだ。

騒音おばさん善人説というものが有る。
僕は、あんなに怒っているのは「彼女の苦痛を理解する」人が周りにいない赤れではないかと感じていた。
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家族というシェルタを失った私達は、誰とをっ共有すれば良いのだろうか?




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DSM-Vに関しての本を読んだときに色々と気がついた。
精神病の種類は、それぞれに効果のある「薬」が生んでいる。
脳内のタンパク質のブロッカーなんぞ使っていたら死ぬぞ(まあ、どちらにしても死ぬことは死ぬのだが.....)。

臨床家のためのDSM-5 虎の巻

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